十可苑・佐賀七賢人の碑
十可苑のもみじ茶屋の左手に、佐賀七賢人碑があります。
佐賀七賢人の碑
所在地:佐賀県佐賀市大和町大字梅野244-11
佐賀の七賢人は、幕末から明治時代にかけて活躍した、佐賀藩出身の賢人、鍋島直正(閑叟)・大隈重信・江藤新平・大木喬任・副島種臣・佐野常民・島義男の七人の総称です。
カノン砲の絵
カノン砲とはフランス語の「canon」に由来し、砲身が長い大砲の総称です。佐賀藩では、嘉永3年(1850年)、築地に独自の洋式反射炉を築造し、日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功し、長崎台場の防衛用大砲を建造しました。
鍋島閑叟公
開明の君主 第十代藩主 鍋島直正
鍋島閑叟公の石碑は破損していました。
鍋島直正(閑叟)(1814年~1871年)
佐賀藩9代藩主鍋島斉直の子として生まれ、天保元年(1830年)に佐賀藩の第十代藩主となりました。天保5年(1834年)に佐賀城下に医学館を建て、嘉永3年(1850年)に反射炉を建て、カノン砲の鋳造に成功しました。明治維新後は議定に就任し大納言の位を受けました。
大隈重信
大隈重信(1838年~1922年)
天保9年、佐嘉藩士、大隈信保(鉄砲組頭)の子として生まれ、弘道館に学び、義祭同盟に参加した。長崎で英語を学び明治政府の徴士となって、外文・賊政に活躍、のち改進党を組織し藩閥政府と抗争した。また、早稲田大学の前身、東京専門学校を創立。のち外務大臣、農商務大臣、総理大臣などを歴任、政治文化に功績があった。大正11年没 年85、従一位をおくられた。(碑文より)
江藤新平
江藤新平(1834年~1874年)
天保5年生まれ、名は胤雄、号は南白。弘道館に学び義祭同盟に参加、維新時、大木とともに東京遷都を建白、また明治政府内で、立法制度において偉大な功績があり、とくに司法卿として司法制度の基礎をつくった。明治6年参議となる。征韓論争で破れ、佐賀県士族におされて、憂国党と組み佐賀の役で戦ったが敗北、逃れて四国で捕らわれ、明治7年非道にも処刑された。 年41。(碑文より)
大木喬任
大木喬任(1832年~1899年)
天保3年佐嘉藩士大木知喬の長子として生まれ、通称幡六、のち民平と改めた、弘道館に学び義祭同盟に参加、明治新政以後、東京府知事民部卿、文部卿、司法卿を歴任、三回にわたる文部大臣として学制・学校令・教育勅語などの教育体制の整備に尽力した。元老院、枢密院両議長を歴任し、明治国家の確立に努力した。常に開放的な立場から圧迫をうけながらも終始儒教主義をおしとおした。明治32年没 年68。(碑文より)
副島種臣
副島種臣(1828年~1905年)
文政11年佐賀藩士枝吉忠左衛門(南濠)の二男として生まれ、副島家の養子となる、幼名龍種号は蒼海、または、一々学人、父および兄枝吉神陽の感化をうけ、尊讓論に傾く、弘道館の国学教授をつとめ、長崎で英学を学び、開国論に転じた。参議、外務卿として支那外交の第一人者、マリアルーズ号事件を解決、征韓論争で下野し清国に遊び、のち侍講宮中顧問官、内務大臣などを歴任した。明治38年没 年78。(碑文より)
佐野常民
佐野常民(1822年~1902年)
文政5年佐嘉藩士下村充贇の五男に生まれ11歳で藩医佐野常徴の養子となる。弘道館で学び医学を緒方洪庵のもとで研修のち藩士に物理、化学を教えた。幕末、国産最初の蒸気機関車模型製作や、佐賀藩初のアームストロング砲の試作に尽力した。慶應3年パリ大博覧会に藩命をうけて渡仏、帰国後、海軍創設につくし大蔵卿、元老院議長、農商務省大臣など歴任した。明治10年西南戦争のとき博愛社(日本赤十字社)を創設して社長となる。明治35年没 年81。(碑文より)
島義男
島義男(1822年~1874年)
文政5年生まれ、通称団右衛門、字は国華楽斎と号した。枝吉神陽に学び、藤田東湖と交友があった。安政年間から蝦夷、樺太を巡見、明治2年開拓使首席判官として札幌を中心に北海道開拓にのりだした。のち、侍従、秋田県令などをつとめ、征韓論分裂のころ旧藩の憂国党に推されて領袖となり、征韓党とともに佐賀の役で戦った。明治7年悲運にも処刑された。年 53。(碑文より)
川上峡讃
養和山荘に憶う 東 一秀
碧翠 山峡にみち 和の妙音 交響す ここ 古代筑紫
天地あい接するところ 悠久無辺の楽土あり(碑文より)