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ひのはしら一里塚

ひのはしら一里塚は長崎街道の中で、唯一の築山を残す一里塚です。

ひのはしら一里塚1

所在地:佐賀県神埼市神埼町
幕府は長崎街道の一里(約4km)毎に、五間四方の築土をし、旅行く者の道のりを知らせ、疲れを癒す場所を作っていました。ひのはしらはという地称は、緋色(赤)の柱、つまり櫛田宮の赤木の鳥居がそびえていたことによります。

ひのはしら一里塚2

5間(9m)四方で、周囲に高さ1.7m~3.4mの石垣が積まれ、内部は高さ約4mの盛土による築山になっています。

ひのはしら一里塚3

イボ地蔵

頂上に祀られているイボ地蔵は立願にはいり豆を好み、また脊振山と背比べのため土を高めることを喜ぶとされています。

ひのはしら一里塚4

神埼市史跡 22世紀に残す佐賀県遺産 第2005-15号 ひのはしら一里塚
一里塚は、江戸時代徳川家康の命により、慶長9年(1604年)日本橋を基点に全国の主要街道に設置された、5間(約9m)四方で高さ一丈の規模の塚です。この一里塚は、江戸までの距離を示すとともに、旅人に休息と木陰を与える為に設置されました。小倉を基点に長崎に至る「長崎街道」においても、一里塚が設置されていました。しかし、現在長崎街道沿線には当時の築山を残す一里塚は残されておらず、この「ひのはしら一里塚」が唯一の築山を残すものです。
「ひのはしら一里塚」に関する記録は、『御国中所々道法帳』に「壱里山ひのはしらに有り」とあり、また、「壱里山女達原村に有り」、「壱里山 本告牟田に有り」と記され、このひのはしらの地と、東は目達原に西は本告牟田に一里塚があったことが分かります。また、寛文5年(1665年)の『肥前古蹟集』には、「神埼縄手の火の柱の地蔵菩薩は石仏なり。霊験あらたにましまして、立願に入り豆をこのみ給う。火の柱は高さ三間余にして広さ二十畳の小塚なり。脊振弁財嶽に丈くらべ給わんとして、土を畳むることを悦び給う。火の柱と云事は櫛田宮の赤木の鳥居此処にありければいう。」とあり、一里塚の頂部にイボ地蔵が祀られ、非常に高い築山であったこと、ひのはしらの地名はここに赤木の鳥居があったことに由来することが分かります。
現在のひのはしら一里塚は、これらの記録に位置・規模ともに合致しており、他の地区の一里塚が消滅している現在、頂部に祀られた「イボ地蔵」信仰により当時の規模・景観がそのまま残されたものと考えられます。このように、ひのはしら一里塚は長崎街道に残る唯一の一里塚であり、イボ地蔵信仰とともに、永く地域において守り伝えられ、江戸時代の街道と交通網に係る歴史的構築物であるとともに、民間信仰の一端を伺うことのできる重要な文化財です。
平成19年2月28日 神埼市教育委員会(現地案内板より)

ひのはしら一里塚5

恵比須像

ひのはしら一里塚の近くにも恵比須像が鎮座されていました。

ひのはしら一里塚6

七福神の湯呑がお供えされていました。

ひのはしら一里塚7

ひのはしら一里塚8

ひのはしら一里塚9

一里塚の上からの眺め

ひのはしら一里塚の上まで登ると、眺めがとってもいいです。


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