多久聖廟 東原庠舎
東原庠舎(とうげんしょうしゃ)は、多久第四代邑主 多久茂文が建てた学問所です。現在の東原庠舎は、茂文の建学の精神を受け継ぐ目的で建てたものです。
所在地:佐賀県多久市多久町1843番地3
「意志があるものは誰でも学ぶことが出来るように」という多久茂文の考えで、武士の子弟のみならず農民や町民の子弟も学ぶことが出来ました。
東原庠舎
東原庠舎は、多久第四代邑主 多久茂文が建てた学問所です。東原は地名で、庠舎は学校を意味します。
茂文は元禄5年(1692年)、佐賀藩主鍋島綱茂から学問所の額を下付され、佐賀の儒学者川浪自安を教授として多久に招聘し、学問所の基礎を築き、次第に学舎を整えました。
江戸時代、武士によって建てられた学校のほとんどは、武士の子弟教育を行なうためのものでしたが、東原庠舎では農民や町民の子弟も学ぶことができました。
東原庠舎での授業は、儒学をはじめ和学、農学、礼法、武術など幅広く行なわれました。武士の子弟は八歳で入学、二十五歳で卒業し、一定の単位を修得することが義務付けられていました。
東原庠舎から多くの人材が育ち、なかでも儒学者 草場佩川、草場船山、日本電気工学の父・志田林三郎、刑法学者・鶴田斗南、実業家・高取伊好などが知られています。
現在の東原庠舎は、茂文の建学の精神を受け継ぐ目的で建てたものです。
平成4年5月、天皇、皇后両陛下は行幸啓の折、この東原庠舎で御休息になられ多久聖廟もご覧になられました。
平成4年8月(現地案内板より)
懸魚
仰高門 額石
聖廟正面に建つ仰高門は、明治26年(1893年)の大風で倒壊し額石も破損しました。仰高門は明治の改修(明治40年~42年)で現在のものに復原されました。
彫られている文字は多久領の学者、草場佩川(くさばはいせん)の筆によるものです。
仰高とは、孔子最愛の弟子、顔子(顔回、顔淵)が師(孔子)をたたえていった「仰げば高し…」の有名な言葉です。(現地案内板より)