孔子の里 多久聖廟
宝永5年(1708年)多久家四代領主多久茂文が文運教化をはかるために建てました。学問の神と称えられる孔子を祀っています。
所在地:佐賀県多久市多久町1843番地3
多久家四代領主多久茂文の「村をよくする為には何より教育が必要」という考えの元、東原庠舎に続き、多久聖廟が建立されました。
多久市の小学校では、論語カルタが普及され、孔子の教えを今も学んでいます。
仰高門
聖廟正面に建つ仰高門は、明治26年(1893年)の大風で倒壊し額石も破損しました。仰高門は明治の改修(明治40年~42年)で現在のものに復原されました。
彫られている文字は多久領の学者、草場佩川(くさばはいせん)の筆によるものです。
仰高とは、孔子最愛の弟子、顔子(顔回、顔淵)が師(孔子)をたたえていった「仰げば高し…」の有名な言葉です。(現地案内板より)
多久聖廟
学問の神と称えられる中国春秋時代の孔子を祀ったところです。宝永5年(1708年)多久家四代領主多久茂文が文運教化をはかるために建てました。
祀られている孔子像は青銅で、京都の儒学者中村惕斎(てきさい)の指導のもとに鋳造され、傍らに四哲といわれる四人の弟子、顔子、曽子、子思子、孟子も祀ってあります。
創建に当っては、佐賀藩の儒学者武富咸亮を相談役とし、多久安成(家老)河浪自安(東原庠舎教授)鶴田省庵ら多久領内の多くの人が力をつくしました。
中国建築様式をとり入れようとどりょくした跡が多く残っています。
創建以来続いている春秋二階の釈菜は、祭官が深衣という中国の儒者の服を着て、今でも中国式に行われています。
建物は昭和25年8月29日、国の重要文化財に指定、昭和32年6月18日聖龕(厨子)も追加指定されました。(現地案内板より)
重要文化財 多久聖廟
多久四代邑主、多久茂文は若いころから儒学を篤く学び、学舎と聖廟の建設を考えていました。元禄12年(1699年)に学舎としての東原庠舎を、宝永5年(1708年)に聖廟を建て、孔子像と顔子、曽子、子思子、孟子の像を安置し、自ら祭官となり、釈菜を執り行いました。以来、春秋二回の釈菜を実施しています。
建物は、国内の数ある孔子廟の中でも最も壮麗といわれています。建築様式は、禅宗様仏堂形式と呼ばれる我国の建築様式ですが、彫刻や文様で中国的な雰囲気を表しています。
多久市(現地案内板より)
来訪当日、小学生のボランティアガイドさん達に案内して頂きました。よく勉強されていて、しっかり教えて下さいました。可愛いガイドさん、ありがとうございました。
唐破風懸魚
唐破風
唐破風には饕餮(とうてつ)が彫られています。また、唐破風の正面欄間には、蛸形文が施されていました。
饕餮は下顎が無く、牙があり、曲がった角、大きな目、大きな鼻、大きな耳、下顎が無い怪物です。饕餮は非常に貪欲で、目についたものはなんでも食べると言われています。
饕餮
饕餮とは何でも食べる、下顎が無い中国神話の怪物です。邪悪な心も食べてくれると言われています。饕餮の下を通れば、清らかな心でお参りできると言われています。
正面の扉には、如意文などが彫刻されています。扉や腰板など建物の要所に中国古来から伝わる吉祥文が施され、中国風を随所に表現しています。
聖龕(せいがん)
廟内の室(奥陣)にある孔子像を収める八角形の厨子です。屋根は本瓦板葺で、柱に纏龍(まといりゅう)が彫刻されています。中から孔子像を取り出せないような細工が施されていて、孔子像を外に出す時は解体しなければなりません。その解体の方法は秘伝となっていて、創建からずっと口伝で3人のみに伝えられています。創建300年祭の時には、無事に孔子を外に出すことが出来たそうです。
青銅製孔子像
京都の儒学者・中村惕斎に製作を依頼して元禄13年(1700年)に鋳造した椅坐像です。像高:90cm・重さ:108kg
麒麟
本堂の床上虹梁上壁に麒麟が彫られています。麒麟は中国の空想の聖獣で、孔子誕生のときに麒麟が現れたという伝説があり、孔子を祀るところには、必ず麒麟の彫刻や絵画があります。
唐破風
唐破風の鳳凰・左
建物の内外には孔子に因んだ聖獣や中国で古代から吉とされる動植物が数多く彫刻されています。
唐破風の鳳凰・右
鯱・右
鯱・左
唐破風の木鼻の龍
木鼻の龍と像
木鼻の像
木鼻の龍・阿形
木鼻の龍・吽形
唐破風の側面の欄間には、竹などの彫刻が施されています。
竹の彫刻欄間
蟇股
蟇股には、若葉の彫刻が施されています。
鬼瓦
軒瓦
鬼瓦と軒瓦
油煙形文
飾り狭間・軒下小壁に、油煙形文が施されています。
花頭窓
礎盤
礎盤には、鍬形文が彫られています。
側面
裏手