大興善寺・熊野神社
大興善寺の境内にある神社です。
大興善寺の仁王門から入ってすぐ左手前方に鳥居がみえます。そこを進み、石段を上ると熊野神社があります。鳥居のすぐそばに大きな銀杏の木がありますので、紅葉の時期は美しさを増します。
熊野神社の御祭神はコノハナサクヤ姫です。コノハナサクヤ姫は、木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売、木花開耶姫とも表記されます。
熊野神社の鳥居
大興善寺の仁王門をくぐり、左手に進むと鳥居があり、さらに進むと石段があり、そこを上ると、熊野神社があります。
熊野神社の石段
熊野神社の石段と紅葉
新緑の熊野神社
紅葉の熊野神社
こちらは特設ステージとして使用されることがあります。時期によっては、コンサートなどのイベントなども行われています。音楽イベントや、天台声明公演などが熊野神社で行われました。
紅葉の熊野神社
拝殿
小松内府の塔
仁王門から境内へ入って、少し右手にある石塔です。周りを石柱で囲んでいます。笠が5つもある、細長い石塔です。小松内府平重盛公の遺髪を埋めた供養塔です。この村落を小松といい大興善寺の山号は小松山です。小松山という名前は、この塔に由来するそうです。何故、平重盛公の遺髪がここにあるのでしょう。謎は深まるばかりです。
平重盛(たいらのしげもり)は、平安時代末期の武将・公卿で、平清盛の嫡男です。六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿、小松内大臣、小松内府と呼ばれるそうです。(現地案内板参照)
薬師堂
薬師堂にはたくさんの仏像が安置されていました。ろうそくや線香があがっていて、厳かな雰囲気でした。
薬師堂
薬師堂
薬師堂と紅葉
国宝殿
国宝殿は、本堂の左手にあります。国宝殿には、木造の広目天立像と多聞天立像が安置されています。ともに一木彫成の素木造で兜を戴き、鎧を着ています。広目天立像は、割とスリムでシュッとしています。多聞天立像は、筋肉隆々でパワフルな感じです。どちらも意外と穏やかな表情をされています。平安時代藤原期の作といわれています。木造の広目天立像と多聞天立像は共に、大正2年(1913年)8月20日に国宝重要文化財に指定されています。木造広目天立像の像高は149cm、木造多聞天立像の像高は144.8cm。
大興善寺の楠
大興善寺の境内には、大きなクスノキもあります。
クスノキ
推定樹齢:600年・樹高:25m・幹回り:5.7m・枝張り30m
さが名木100選にも選ばれています。広く広がった枝には、青々と繁った葉っぱがぎっしりとついています。高さもあり、枝張りも大きいので存在感があります。
クスノキを見るとなんだか落ち着きます。クスノキの香りも好きです。
自然石彫像板碑
仁王門から入ってすぐの境内の左手にあります。マリア観音の右隣にあります。
高さ:1.3m・幅54cmで、花崗岩に制托迦童子の像が彫られています。若干摩耗していますが、表情や衣の様子もよくわかります。竹筒に入れたお花が供えられていました。
基山町重要文化財(昭和60年5月13日指定) 自然石彫像板碑
この碑は、高さ1.3m、幅54cmの板状の花崗岩に高さ65cmの制托迦童子(せいたかどうじ)と思われる像を彫り込んでいます。像の右下には「正平十年八月十八日 檀那 敬白」の銘文があります。「正平十年」は、西暦1355年にあたり、南北朝時代の南朝方の年号です。このことから、この地一帯が当時南朝方の勢力下にあったことが窺えます。本来、大興善寺の東麓にある清水一の宮にあったもので、当寺が祀ったとされる十五童子の一つと思われます。 基山町教育委員会(現地案内板より)
マリア観音
この像は以前博多「袖の梅酒造」柴田忠次郎氏邸内に安置されておりましたが、博多聖福寺仙厓和尚と信仰厚き、豪潮律師の縁にちなみ、柴田氏が当山に寄進されたものです。(現地案内板より)
上の写真の右から二番目に安置されているのが、マリア観音です。それにしても、仙厓和尚と豪潮律師のご縁があったとは驚きです。私は仙厓和尚さんも大好きです。博多の聖福寺にも何度も伺いました。出光美術館で開催されていました、仙厓和尚展にも行きました。仙厓和尚さんの書も絵も文章も人柄も大好きです。そんな仙厓和尚と縁があった豪潮律師に俄然興味がわいてきました。
wikipediaには、豪潮律師について、「寛延2年、玉名市岱明町山下の浄土真宗安養寺の塔頭 専光寺貫道の次男として生まれた。7歳の時、父に伴われ現荒尾市野原の天台宗霊験寺の豪旭阿闍梨により快潮と名付けられる。その後、師の豪旭に伴い玉名市繁根木の寿福寺に移った。」と書かれていました。浄土真宗のお寺に生まれたのに、何故天台宗に。謎です。また、調べたいこと、勉強したいこと、行きたい所が増えました。旅の連鎖というか、謎の連鎖というか、歴史の連鎖というか、人と人の縁でしょうか。これだから旅はやめられません。楽しいです。
諸悪莫作衆善奉行の句碑
「諸悪莫作衆善奉行」の句は、増一阿含経にとかれているもので、その後に続く「自浄其意是諸仏教」とあわせて仏教の綱領として著名です。悪というべき悪をつくらず、善というべき善をはげみて こころのけがれあらいきよむる。これぞ仏の教えなりけり。増一阿含経は、一法から十一法まで数によって教説を分類整理した経典で五十一巻あります。瞿(く)曇(どん)僧伽(そうぎゃ)婆(ば)の訳とされています。諸行無常・諸法無我などの教えも書かれています。(現地案内板より)
十羅刹女の石碑
一番左端の石碑が十羅刹女(じゅらせつにょ)の石碑です。十羅刹女は、法華経陀羅尼品に説かれている善神です。法華経を読誦し受持する行者を守り、その災いを除く守護神です。
十羅刹女は、仏教の天部における10人の女性の鬼神のひとりで、法華経の諸天善神です。藍婆(らんば)、毘藍婆(びらんば)、曲歯(こくし)、華歯(けし)、黒歯(こくし)、多髪(たはつ)、無厭足(むえんぞく)、持瓔珞(じようらく)、皇諦(こうだい)、奪一切衆生精気(だついっさいしゅじょうしょうげ)
平和の鐘
世界平和を祈念して造られた平和の鐘です。この梵鐘は、昭和63年、第二百五十三世天台座主「山田恵諦大僧正猊下」の御染筆を賜り再鋳した世界平和を祈る鐘です。以前は仁王門のすぐ左手にありましたが、現在は、そこから30メートルほど内側に移動しています。
平和の鐘
この梵鐘は昭和63年、第二百五十三世天台座主「山田恵諦大僧正猊下」の御染筆を賜り再鋳した「平和の鐘」です。平成18年9月17日夕刻、多くの人に親しまれていた鐘楼が、台風13号の被害を受けて倒壊致しました。鐘楼は、大興善寺別格本山昇格を祈念して、昭和53年長野意見上田市北向観音の鐘楼の建築様式を模して、建てられたものでした。平成20年(2008年)には、この平和の鐘に新しい鐘楼が出来ました。