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長崎街道 嬉野宿

小倉から長崎までの間には25の宿場がありました。その内佐賀県内には13の宿場があり、嬉野宿はそのひとつです。

嬉野宿6

所在地:佐賀県嬉野市
小倉から長崎までの57里(228km)には、25の宿場がありました。その内、佐賀県内には13の宿場があり、嬉野宿はその中のひとつです。嬉野宿の全長は約500m、その通りには旅館や木賃宿、商家などが約100軒、軒をつられ寝ていました。嬉野宿には、佐賀藩直営の公衆温泉があったことから、嬉野湯宿と呼ばれていました。嬉野宿は、古くから湯治場として旅人や近隣の人々に親しまれ、湯治場としても栄えました。1791年牛津宿が大火に見舞われ、本陣も焼失してしまったため、嬉野宿の瑞光寺が本陣になり、重要な役割を果たしました。

嬉野宿9

旧長崎街道

嬉野宿8

番号石

番号石は、江戸時代の嬉野の特異性を物語るもので、佐賀本藩と蓮池支藩との境界線上に約2千個の番碁石(藩境石)が設置されていました。下の図面は、嬉野郷内の蓮池藩領図であり、佐賀領との境を知ることができます。また、この図に示された当時の村は、現在の地区の区域と完全に一致しています。(碑文より)

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番号石

番号石は、江戸時代の嬉野の特異性を物語るもので、佐賀本藩と蓮池支藩との境界線上に約2千個の番号石(藩境石)が設置されていました。番号石は、嬉野郷内の蓮池藩領と佐賀藩領との境を標すものです。嬉野市内の各所でみることができます。当時は、約二千個の番号石が設置されていたそうです。番号石は、形や石の材質も様々です。

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百四十一番の番号石(境界石)

江戸時代の嬉野地区は、山地を佐賀藩、平地部(米作地帯)を蓮池支藩領として分割統治されていました。この両藩の間で境界線をめぐって紛争が起こり(1781年)4年間の交渉の後、新しい境界線が定められ、その境界線上に番号石(境界石)が設置されました。番号石は、全藩境40キロメートルにわたって約2千個(20メートルに1個の割合)を設置したものであり、日本中に礼を見ない特異なもので、嬉野の歴史の一断面を物語るものです。(碑文より)

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上使屋跡

所在地:佐賀県嬉野市嬉野町下宿
上使屋は、御茶屋とも呼ばれ、江戸時代、大名や長崎奉行、幕府役人、他藩の上級武士を、休憩宿泊させたり、接待したりする時に使っていました。嬉野宿の上使屋は、温泉付きの特別なものでした。写真は、上使屋跡に設定されている石碑です。

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上使屋跡

江戸時代嬉野町は佐賀藩蓮池史書の支配地でした。当時は長崎街道嬉野宿(嬉野湯宿)と呼ばれ、大村領から佐賀領に入った第一番目の重要な宿場でした。上使屋(御茶屋)とは、大名・長崎奉行・幕府役人・他藩の上級武士を休憩宿泊させ接待するためのもので、佐賀藩では20ヶ所ほどが用意されていました。嬉野湯宿の上使屋は武雄御茶屋とともに温泉つきの特別のもので、現在の遊戯広場からこの場所あたりまで設けられていました。
文久2年(1862年)に豊玉姫神社境内の一部を取り入れ拡張され新上使屋が完成しましたが、江戸幕府が倒れ廃藩となり明治4年民間に払い下げられて塩屋という嬉野第一の旅館となりました。塩屋は大正11年の嬉野大火の折に焼失しましたが、上使屋の門は嬉野町下宿の明元寺の山門として現存しています。
平成12年10月 嬉野町(現地案内板より)

嬉野宿7

嬉野宿4

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旧長崎街道 俵坂関所跡

所在地:佐賀県嬉野市嬉野町大字不動山
吉田松陰が日記に記したこの関所跡は、坂本龍馬なども往復したと言われている長崎街道の面影を残し、当時を偲ぶことができます。跡地の記念碑は、当時の門柱で建てられており、碑の周辺が関所の跡地、横に走る坂道が長崎街道です。長崎へ十八里、江戸へ三百里と記されています。

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長崎街道 俵坂関所跡

江戸時代、幕府の管轄を関所、藩の管轄を口留番所と呼び、正しくは俵坂口留番所である。戦国時代にすでに関所としての機能があったと伝えられるが、創設の時代は不明である。江戸時代になると長崎街道として佐賀、大村両藩の藩境の要地となり、特にキリシタンの取締りが厳しかったといわれる。
敷地面積二百余坪、建物は間口四間(7.2m)奥行7間(3.6m)の構えで、侍1名、足軽9名が監視にあたり、通路には門札が建てられ、その両脇には竹の柵が巡らされていた。大名行列御通行のおりには、番所役人が威儀を正して平伏し、送り迎えをしたといわれる。明治維新を向かえ明治4年(1872年)の廃藩置県によって廃止になった。
嬉野町教育委員会(現地案内板より)


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