河上山 實相院
和銅5年(712年)に、行基菩薩が岩屋山に神宮寺を開基されたのが實相院(実相院)の始まりです。神通密寺実相院は河上一山の代表寺院で、室町時代には最も有力な勢力を持ち、今日に至っています。
所在地:佐賀県佐賀市大和町大字川上947
真言宗の寺院で、本尊は薬師如来です。
寺伝によれば開山は元明天皇の和銅5年(712年)僧行基が実相院の西北方岩屋山に草庵を建て「神宮寺」と称し法相の布教に勤めたのが始まりだとされています。それから377年経過した寛治3年(1089年)8月、河上神社の社僧円尋が実相院裏山一帯の荒地を開墾し一宇の房舎を建て河上山別所と称し、薬師、弥陀二仏を本尊としました。円尋は行基より49代、天台宗の僧で、ここに一宇の僧堂を建ててから如法経会を始めました。円尋を第1世として時に多少の盛衰はありましたが、次第に栄え宏壮な仏閣も建てらました。
河上山實相院の由来
宗旨真言宗、本尊薬師如来。当山は今を去る1270年前、行基菩薩が和銅5年(712年)岩屋山に神宮寺を開基されたのが実相院の始まりである。それから380年後、實治元年(1087年)比叡山より圓尋僧正が別所一帯を開墾し、河上山神護寺実相院を建立した。当時の境域は広漢数十町歩と記してある。寛嘉2年(1230年)貞暁法師が勅補座主になった貞暁座主は源頼朝公の四男である。この頃より真言宗となり、実相院を中心に十二坊の塔頭、七堂伽藍等が建立された。その後観応2年(1351年)頃河上山神通寺実相院と改称され今日に至っている。
従来代々の座主は河上山座主と称して與止日女神社と共に神事佛事を菅領する最高の地位で統率者であった。元亀元年(1570年)大友宗麟によって神社仏閣悉く焼き尽くされた。龍造寺家の援助により元亀3年(1572年)に見事に造営を遂げた。その後鍋島家の信仰により次第に旧観に復した。嘉永元年から3年に建立された龍造寺家、鍋島家の祈願寺であった。
当山に伝わるお経会は圓尋僧正が寛治3年(1089年)に如法堂を建て、毎年4月10日より20ニチイまで玉体安穏鎮護国家、国土安泰平を祈り、又死者の冥福を祈念されたのが始まりである。今より900年前よりの伝統の大法要で爾来一度も欠げた事がない。文化財は仁王門を始め、数々の文化財を保有する。
平成元年1月 大和町(現地案内板より)
仁王門
三間一戸の八脚門で、正面の額の裏に寛永20年(1643年)の年号があり、この頃の建物と考えられます。
仁王門の蟇股には、菊の彫刻が施されていました。
仁王門の扁額
仁王門の扁額には、「神通密寺」と記され、菊の紋が四つ飾られていました。實相院は正式には、「河上山神通密寺實相院」と言います。
仁王像阿形
筋肉隆々で腹筋も見事に割れ、腕には浮き出た血管まで描かれています。天衣も美しい仁王像です。目力が凄いです。
仁王像吽形
仁王像はヒノキ材の寄木造り、玉眼、色彩の像で高さは約260センチの巨像です。長い風雪のうちに腕や天衣が落ちていましたが、多くの方々の浄財によって、平成8年(1996年)5月までにみごとに修復され、昔の威厳を取り戻しました。古文書や今回の修復から江戸時代初頭に京都の仏師によって造られたことが推定出来ます。
クス材の台座から江戸時代前半の寛永20年(1643年)の年号が発見されましたが、像とは木材が異なり、像の出来に対しても台座が簡略なことから、仁王像の造られた年代はやや古くなる可能性もあります。
大和町教育委員会(現地案内板より)
仁王門の屋根
仁王門の鯱
軒瓦
軒瓦には「川上山」と彫られています。
仁王門の鬼瓦
河上山實相院の由来
本堂
屋根は入母屋造り、桟瓦葺です。
鰐口が吊るされている上の蟇股には、杏葉紋が彫られています。
鰐口
鰐口には、桐の紋と菊の紋、阿吽の獅子が描かれています。また、中央の撞座には九曜紋が、撞座の周りの部分にはハートの形の猪目が描かれています。この猪目は、猪や獣の目を模したもので、魔除けの意味や招福の意味があると云われている、日本古来の文様です。