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武雄温泉新館1階

新館は、大正4年に建築されました。辰野葛西建築事務所の設計で、清水組が建設しました。入母屋造で、五銭湯の湯気抜きは八角形をしています。

武雄温泉新館1

この建物は1915年に武雄温泉株式会社の前身である武雄温泉組組合長宮原忠直が、当時日本の建築界で高名な辰野金吾博士に設計を依頼したものです。当時の設計図には、博士の得意な洋風建築様式が基礎のレンガや浴室など随所にみられます。しかし、工事中に変更がなされ、最終的にできあがったのは、朱色に映える和風の建物でした。日本の良き温泉文化を後世に伝える貴重な建物です。
明治になると武雄温泉は領主の所有から国有となり、明治8年払い下げが行われ、湯町の町民が出資し、柄崎温泉組を組織しました。翌9年には浴場をすべて新築改造しました。現在の元湯の建物がこれにあたります。宮原忠直が組長をしていた大正3年には、日本近代建築の父といわれた辰野金吾に「温泉・自然・陶磁器」を核としたテーマーパーク設計を依頼し、今に残る楼門と新館が翌4年に完成しています。残念ながらサウナとビリヤードをはじめとした娯楽施設は建設されていません。(現地案内板より)

武雄温泉新館3

1階中庭 男湯側

この空間は、脱衣室の喚起採光を促すために、無双と呼ばれる喚起窓やガラス窓を設けるため、また屋根の雨水を処理するための中庭です。床の砂利部分には、創建時の土管があり、これを後世に残すために砂利散布とした仕上がりにしました。増築により、十銭湯の一部として中庭が浴室に利用されていました。

武雄温泉新館2

幻の設計図

辰野金吾が手掛けた楼門や温泉新館には幻の設計図があった。そこに描かれていたのは、当時としては極めて珍しいサウナ方式の蒸し風呂や、1階にビリヤード場、2階に舞台と寄席がある娯楽場。そして現在は1つしかない楼門が三3つ描かれていた。宮原忠直は、それまでの「陶磁湯」的存在だった武雄温泉をリゾート施設に変身させようとしていたのだ。(現地案内板より)

武雄温泉新館4

忠直が見た「竜宮城」構想

忠直は楼門の建築後、東京の庭園会社に日本庭園をつくらせている。温泉の背後には奇岩で知られる桜山。また忠直は温泉に古陶器の展示館や高級旅館をつくる構想も持っていた。客は算数がのような自然の中で、陶磁器を鑑賞し、演劇やビリヤードを楽しむ。温泉に入った後は旅館に泊まり、料理をつまむ。忠直が武雄温泉に想い描いた「竜宮城」は自然、温泉、陶磁器を核にした、壮大なテーマーパーク的構想だったのだ。(現地案内板より)

武雄温泉新館8

漆長持

漆長持(うるしながもち)
横168cm×縦76cm×高さ79cm
総桐製
家紋入(五瓜に唐花紋)
衣類や寝具等の収納に使用されていた。漆を塗った「漆長持」と素木の木地の「木地長持」がある。蓋のはめ込みは印籠型となっており、錠前の金具部分にも家紋が彫られている。また、二の上部は少し丸みをもたせてあり、上等品であることがわかる。両端の金具に棹を通し、二人で担いで運ぶことができ、嫁入り道具の一つでもあった。佐賀県に伝わる「たんす長持唄」は、この長持を運ぶ時の唄で、婚礼時によく歌われた。(現地案内板より)

武雄温泉新館5

五瓜に唐花門

日本五大家紋「木瓜紋」の一種。神紋として、京都八坂神社をはじめとする祇園社などが使用。見た目から胡瓜の切り口を思われがちだが、鳥の巣をデザインしたものと伝えられる。鳥の巣=子孫繁栄の思いが込めれれていて、めでたい紋とされる。戦国武将「柴田勝家」は替紋として使用した。(現地案内板より)

武雄温泉新館7

武雄温泉新館1階照明

武雄温泉新館11

武雄温泉新館棟札

大正3年に棟上された時のもの。棟梁は清水組(現:清水建設)の「清水満之助」で、現在の大手ゼネコン「清水建設」が請け負ったことがわかります。(現地案内板より)

武雄温泉新館9

武雄温泉新館1階廊下

武雄温泉新館10

女湯

武雄温泉新館13

廊下

武雄温泉新館6

柱の材料について

新館の柱は「杉材」と「トガ材」が使用されています。おもてなしの空間である部屋に「トガ材」が用いられています。たとえば、上々湯の部屋は柱のみならず壁板、天井板とも「トガ材」で造られています。
 現在の木材店では、海外のトガ材しか手に入りません。四国地方、九州各地を訪ねた結果、今回の復元には熊本県の球磨地方の木材店に銘木として蓄積されていました木材を快く分けていただきました。このように、色々な方の協力があって、実って文化財の価値を高めることになりました。(現地案内板より)

武雄温泉新館14

新館の階段

武雄温泉新館12

武雄温泉新館15

武雄温泉新館16

江戸で今日のような形の相撲番付が作られると、序列が一目で判り、東西の比較もしやすいことから、たちまち各種の見立て番付が作られるようになりました。温泉に関しても多くのものが作られ、効能による番付や案内用の番付などに武雄温泉の名がみられます。
≪諸国温泉一覧≫
江戸時代後期の番付で、温泉の効能と江戸から各温泉地までの距離が記されています。武雄は、肥前竹尾湯と記載され、西の方 前頭19枚目に位置し、三百り ふ人吉(江戸から三百里、婦人に効能あり)とあります。最高位の大関には、西 摂州有馬の湯、東上州草津の湯が番付されています。
≪大日本温泉一覧≫
明治時代になって作られた温泉一覧で、観光地・保養地としての温泉場の紹介を目的としたようです。武雄は、ヒゼン 竹尾ノ温泉と記載され、東の前頭33枚目に位置しています。最高位の大関には有馬ノ温泉、草津ノ温泉があげられており、番付中に新たに世話人が登場しています。宮原忠直と武雄温泉より(現地案内板より)

武雄温泉新館17


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