田島神社
商売・交通の守護神として信仰を集める神社です。
所在地:佐賀県唐津市呼子町加部島3965
港から鳥居、石段と続き、その上に社殿があります。肥前国最古の神社といわれ、元国弊社で三女神を祀り、古くから多くの人が交通、航海の守護神として信仰し、海陸交通安全、豊作大漁、商売繁栄の祈願所なっています。江戸時代には、唐津藩の祈願所になっていました。
田島神社境内には太閤石や元寇の碇石、佐用姫神社などがあります。毎年7月29・30日には、田島神社夏越祭が行われます。当日は、加部島の島民全員が禊(みそぎ)をして、田島神社に集まり神への祭礼を行います。
御祭神は、宗像三女神と同じ、多紀理毘賣尊(たぎりひめのみこと)・市杵島比賣尊(いちきしまひめのみこと)・多岐津比賣尊(たぎつひめのみこと)
相殿:大山祇命(おおやますみのみこと)・稚武王命(わかたけおうのみこと)
鳥居と石段と楼門
本社の御鎮座は悠遠の昔であって早くより朝廷の尊崇厚く、奈良朝天平10年には大伴古麿に詔命して田島大明神を贈らせ給う。大同元年には神封16戸を充てられ正四位に列せられ元暦2年3月正一位に累進し給う。
延喜の制に於いては当国にて唯一の明神大神に列せられ中世以降は武門の尊信を受けて歴代唐津城主の祈願所となり明治4年国弊中社に列せられ毎年勅使を派遣されていたが大東亜戦争後、宗教法人となり別表神社に編入され今日に至る。(現地案内板より)
石段と楼門
楼門
楼門
楼門から石段と拝殿
拝殿
狛犬阿形
拝殿のすぐ傍の狛犬です。
狛犬吽形
拝殿のすぐ傍の狛犬です。
本殿
狛犬阿形
本殿の傍の狛犬です。立ち上がって玉乗りしています。
狛犬吽形
本殿の傍の狛犬です。逆立ちして玉乗りしています。
楼門をくぐって左手に佐用姫神社があります。
佐與姫神社
松浦佐與姫を祭るこの神社は、宣化天皇2年10月、大友狭手彦は勅命により、任那を援護することになり、京の都を発し、松浦国篠原の里に滞在した。篠原村長者の娘佐與姫は心優しく狭手彦と相思の仲となった。いよいよ出航の時、別れを惜しみ後を慕い、領巾振山(鏡山)に登り遥に船影を望んだ。更に松浦川を渡り沖合い遠く走る帆影は小さく雲間に没して見えなくなった。姫の悲嘆はますます募り、田嶋神社の神前に詣でて夫の安泰を祈念しながらも泣き続け息絶えて神石となられた。世に言う望夫石である。これをお祀りしたのが当社である。
豊臣秀吉より文禄2年百石の御朱印以来、徳川将軍家に引き継がれた。その後佐與姫の想いが叶い、狭手彦は無事帰国した。以後唐津城主の姫君などがお忍びで再三参拝され、良縁の御守りを持ち帰られた。以来縁結びの守神として信仰厚く、男女の参拝は習俗となって、現在も続いている。(現地案内板より)
佐用姫神社石燈籠
参道と鳥居
頼光鳥居と石段
千年もの歴史がある鳥居、すごいです。
頼光鳥居
頼光鳥居(らいこうとりい)は肥前鳥居として佐賀県最古のもので、今より約1千年前(円融天皇、天元3年)大江山の鬼退治で有名な源頼光が肥前守として都より下向の際に寄進したものである。田島宮の文字は参議藤原佐理卿の筆である。その後、風波の為に崩れた上松浦党領袖波多氏鳥居を修造して今日に至(現地案内板より)
元寇の碇石
太閤秀吉が名護屋城在陣の折、使用したといわれる太閤石が境内にありました。蒙古軍船の碇石で、田島神社の東方玄海の海中より引き揚げたものです。
狛犬阿形
参道の狛犬
狛犬吽形
参道の狛犬
力石
力石(ちからいし)もありました。力石は、豊臣秀吉が名護屋城在陣の折、その配下将等が田島神社参拝に際し、海岸より一抱えもある円石を社前に運び上げ、此を両手で頭上高く何回捧げ得るかによって、互いに力量を競い合ったもので、現在は一個しか残っていなません。