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宝当神社

平成5年(1993年)12月1日より、宝当袋なる縁起物を、島おこしとし作成・販売しました。すると宝くじ当選という御利益が現れ、宝くじが当たる神社として全国区で有名になり、今では多くの方が参拝されています。

宝当神社1

宝当神社(寶當神社・ほうとうじんじゃ)
所在地:佐賀県唐津市高島525

宝当神社2

「寶當(ほうとう)」の文字にあやかって、宝くじ当選祈願で参拝する人が増え、参拝した人や宝当神社のグッズ作製などに関わった人の中から宝くじの高額当選者が多数出て、テレビや雑誌などに紹介され有名になりました。今では全国から年間二十万人もの参拝者がいるそうです。境内では一般的なお札や厄除けなどの他、宝当袋、必当御守、宝当あたり矢など宝くじにちなんだグッズが販売されています。

宝当神社3

私達も宝くじを買って、宝当神社にしっかり参拝しました。結果は…。

宝当神社4

宝当神社5

宝当神社6

宝当神社(寶當神社)

御祭神:野崎隠岐守綱吉(のざきおきのかみつなよし)
天文23年(1554年)、信州は諏訪の国に生誕する。12歳、生まれつき才能があり、哀れみの心も篤く、道理をわきまえ、礼儀も正しく、勇気と力持ちで、当時の人は、偉丈夫であると称していた。豊後の大友義鎮公につかえ、数度の軍功著しく、恩賞を戴く。大友義鎮公は、肥前国草野城主として草野鎮永に迎えられた。
元亀4年(1574年)3月2日、草野城は、龍造寺隆信率いる5400騎に取り囲まれる。野崎隠岐守綱吉と原瀬久太郎国は、やおもてに立ち奮戦する。これにより、龍造寺は勢力を失い敗走した。草野城はこれで安堵をしたが、草野家の老臣は綱吉の勇力を恐れ、ねたみ、主家に綱吉の居場所が無いようしむける。元亀4年(1574年)9月21日、綱吉は、止むを得ず三人を引き連れ、夜陰に紛れ小舟を操り高島に逃れる。元亀4年(1574年)12月21日、龍造寺は、再度草野城に至り連戦の末、草野城を陥城した。(平原の合戦)
綱吉が高島に移り住みし頃である。当時世人は、筑前国吉井の海賊、火山神九郎の猛悪異名に恐れおののいていた。ある日の事、吉井●娘が神九郎の手下三十余人を率いて、高島の人家を襲った。穀物や金銭を強奪し、船に積み込み、とも綱を解き、浜辺を去ろうとしていた。これを聞きつけた綱吉は、海浜に走り出て飛鳥の如く賊船に飛び乗り、帆柱を引き抜き横一文字に振りまいた。賊徒は、その場に倒れ、各自物を取って綱吉に立ち向かってきた。綱吉は、車輪の如く早業で投げ飛ばし、骨折、流血、転倒、負傷をおいながらも、賊徒を倒した。生き残った者はわずか5人であった。5人は、強奪した物を前にして命乞いをし、綱吉は、それをねんごろに諭し許した。その後、近遠の賊船は、綱吉の勇力を聞き、二度と高島を襲うことはなかった。
天正9年(1581年)、綱吉は島民とはかり、祖先を奉る氏神として塩屋神社(山王宮)を設立。天正12年(1585年)、綱吉の嫡男、吉道(姶称主馬之助)高島において生誕。天正13年(1586年)8月23日、綱吉は、にわかに病に犯され再起することができず、高島において逝去。(若年32歳)島民は、綱吉を島の大権現として葬を厚くし祠を建てる。明治34年(1901年)、当島の宝「寶當神社」とし 称し、鳥居が奉献され、年々奉を催す事怠らず。― 野崎家の系図より ―
平成5年(1993年)12月1日より、宝当袋なる縁起物を、島おこしとしてこさえたあげく、宝くじ当選という御利益が現れ、宝くじが当たる神社として全国区で有名になり、今では多くの方に参拝戴いております。塩屋神社も同様御参拝ください。
島民一同 (現地案内板より)


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