唐津くんち曳山
からつくんち(11月2.3.4日)は、今もなお製作年代順に従って城下町を三ツ囃子も賑やかに、勇ましく練り歩きます。
これらのヤマは「漆の一閑張り(うるしのいっかんばり)」といわれる工法で出来ており、始めに木組みをし、粘土や木型等で原形を作り、その上に和紙(唐津地方は和紙の産地で有名)を何百枚と張り重ね、麻布なども張り合わせて、漆で固め丹念に塗り上げたものです。
一台のヤマの完成に町人たちは3年から4年を費やしたと伝えられますが、只1台だけその製作費用が記録されているのが、鳳凰丸です。弘化3年といえば、今から約140年ぐらい前の江戸末期ですが当時の金で1750両かかったと記録してあり、今の金額にすれば、約六千万円~八千万円にもなりましょうか。重量は4.5トンあります。
各町それぞれの趣向をこらして作られたヤマが現在14台保存され、唐津神社の秋祭り、からつくんちの三日間だけ、各町の男の曳き子達によって曳き廻されます。曳き子の装束も、昔の火消し組の名残りをとどめ、江戸腹、パッチ、腕抜き、羽二重の派手な肉じゅばんに、ハッピを羽織り、揃いの鉢巻に赤緒のゾーリ、黒タビとイキな姿で豪壮なヤマを曳き、笛、カネ、太鼓のヤマ囃子にのって、年に一度の楽しい「からつくんち」に町中が酔いしれるのです。
曳山は唐津神社のそばの曳山展示場に年間展示公開しております。唐津曳山取締役会(現地案内板より)
刀町
1番曳山
赤獅子
文政2年(1819年)作製
獅子舞などで知られる獅子を模した曳山です。文政2年(1819年)に刀町の石崎嘉兵衛がお伊勢参りの帰りに京都祇園山笠を見て感動し、帰郷後に仲間を集めて赤獅子(曳山)を造り唐津神社へ奉納したのが、唐津くんちの曳山行事の始まりとなりました。
中町
2番曳山
青獅子
文政7年(1824年)作製
制作者は、獅子細工人の辻利吉と塗師の儀七です。赤獅子が雌で青獅子が雄の雌雄の対になっています。青獅子は角の先がふたつに分かれています。耳は赤く、横にくるりんと立っています。赤と白のねじり鉢巻きをしています。金の巻き毛とずらりと並んだ金歯が豪華です。
青獅子
材木町
3番曳山
亀と浦島太郎
天保12年(1841年)作製
作製者は、須賀仲三郎です。作製当初は、亀の甲羅の上には、浦島太郎ではなく、宝珠がのっていたそうです。作製から約20年後に浦島太郎の人形がのせられたそうです。浦島太郎がなぜか気品があり、上品な浦島太郎になっています。
亀と浦島太郎
呉服町
4番曳山
源義経の兜
天保15年(1844年)作製
作製者:獅子細工人石崎八右衛門、脇山舛太郎、塗師脇山卯太郎、大工佛師庭吉、白井久介、永田勇吉、諸金物師房右エ門など兜の一つひとつの部品が精巧に作られています。兜の正面の金の龍がかっこいいです。源義経の顔は黒塗りで、迫力があります。
源義経の兜
源義経の兜
源義経の兜
魚屋町
5番曳山
鯛
弘化2年(1845年)作製
鯛は正に魚の鯛。真っ赤な体に金のうろこ、真っ黒で大きな真ん丸のつぶらな目が可愛いです。バランスがよく、フォルムが美しいです。唐津くんちで市内を曳き廻す時は、横腹についたひれが動きます。それがまた可愛いです。私は子供の頃から、この5番曳山の鯛が一番好きです。
鯛
大石町
6番曳山
鳳凰丸
弘化3年(1846年)作製
製作者:細工人永田勇吉、塗師小川次郎兵衛など。鳳凰丸は中国の伝説に描かれる龍・亀・麒・鳳凰の四神(四霊)の内の鳳凰を模した曳山です。鳳凰の背中が船の様になっています。赤いとさかに、金の羽。眼光もくちばしも鋭いです。
鳳凰丸
鳳凰丸
新町
7番曳山
飛龍
弘化3年(1846年)作製
中国の伝説の四神(四霊)の鳳凰・亀・麒麟・龍の内、龍を模して作っています。龍が天に駆けあがる様、飛龍をイメージしていて、体が上下に動きます。朱塗りの体に金の角、金の牙、金の髭。以前飛龍と鯱がどっちがどっちか迷った頃がありましたが、尻尾のひれが、分れていない方が飛龍で、二つに分かれている方が鯱だと覚えました。
飛龍
本町
8番曳山
金獅子
弘化4年(1847年)作製
赤獅子、青獅子、金獅子と3台の獅子がいます。その中でもこの金獅子が一際大きいです。歯茎と耳の中が朱いだけで、後はほとんどきんきらきんの金獅子です。角は青獅子と同じ様に上部が二段に分かれています。ねじり鉢巻きは、赤獅子と同じで白と黒です。とにかく大きくて金ぴかぴかです。
木綿町
9番曳山
武田信玄の兜
元治元年(1864年)作製
製作者:細工人・紅屋近藤藤兵衛、塗師・畑重兵衛など。獅子噛の前立と白熊の兜蓑が特徴的な、諏訪法性(すわほっしょう)の兜を模した兜曳山です。獅子噛の周りにつけられている毛は、白いハグマの毛を使っているそうです。ハグマとはチベットやインド北方の高地に住む野牛の一種ヤクの尾の毛のことです。諏訪法性は諏訪明神を表しているもので、諏訪法性の兜は川中島の合戦錦絵などに、武田信玄が着用した姿で描かれています。金色の鹿の角とふさふさのハグマの毛が印象的です。
平野町
10番曳山
上杉謙信の兜
明治2年(1869年)
製作者:細工人・富野武蔵、塗師・須賀仲三郎など。戦国武将、上杉謙信の兜を模したものです。金獅子がのっています。昭和3年当時も金獅子でしたが、その後、朱く塗り替えられ、平成18年に20年ぶりの塗替えを行った際に金色に塗り替えたそうです。朱と金のコントラストが美しく豪華ですので、今の金獅子のままが好きです。
米屋町
11番曳山
酒呑童子と源頼光の兜
明治2年(1869年)作製
制作者:細工人・吉村藤右衛門、近藤藤兵衛、塗師・須賀(管)仲三郎、大工・高嵜作右衛門、同作兵衛、同九兵衛、宮嵜利助など。酒呑童子伝説の寓話の中に登場する源頼光によって斬られた酒呑童子の首が兜に噛み付いた様子を表しています。兜に噛みついた酒呑童子の白目が血走っています。黒くて太くてふさふさの眉とひげが印象的です。
京町
12番曳山
珠取獅子
明治8年(1875年)作製
制作者:細工人・富野淇園、塗師棟梁・大木夘兵衛、塗師・大木敬助など。神社の狛犬がモデルになっているそうです。しかし、神社の狛犬で珠にのっているのは、片足か、多くとも2本の足のみで珠にのっています。珠取獅子は、四本脚全部というか、お腹の下に珠があり、正に玉乗り状態です。赤と金の珠に、緑の獅子がのっています。歯茎が朱色、歯と巻き毛は金色です。
水主町
13番曳山
鯱
明治9年(1876年)作製
幅:2.5m・高さ:5.9m・重さ:1.5t
製作者:細工人・富野淇園、大工棟梁・木村與兵衛、鍛冶・正田熊之進、木挽・楠田儀七、塗師棟梁・川崎峯次晴房(当初の曳山)。但し、鯱曳山は、昭和3年に作り変えられました。鯱(しゃち)は、中国古来から伝わる伝説の生き物で、頭は虎に似ていて、背に鋭いとげがあり、尾が反っています。また、口から水を吐き出すことから、火除け・防火 の意味があるとされ、お城の天守閣の屋根の上や住宅の屋根の上にはしゃちほこが飾られています。朱塗りの体に金の鱗に、金の髭、白い牙、鯱は尾鰭が前後に分かれています。
撮影当日は、この鯱だけが曳山展示場の外に出ていました。町内の方々などが曳山のお手入れをされている最中でした。この様に唐津くんち当日以外も時折曳山展示場の外に出して、お手入れをされているそうです。
江川町
14番曳山
七宝丸
明治9年(1876年)作製
製作者:細工人・宮崎和助、塗師・須賀仲三郎、大工棟梁・田中市次正信など。七宝丸は、宝珠、軍配、打出の小槌、隠れ蓑、宝袋、勾玉、一対の巻物の七つの宝を積んだ宝船を模して作られています。宝船の先頭には、ぐわぁ~と口を開けた迫力満点の龍頭が付いています。曳山は製作順に市内を曳きますが、11月4日に神社前を出発する際は14番曳山の七宝丸が先に出発しその後に13番曳山の鯱が続きます。その後、鯱が前に七宝丸が後になり、元の順番に入れ替わります。これは、曳山が完成したのは、13番曳山鯱が先でしたが、唐津神社へ奉納したのは14番曳山七宝丸が先でした。そのため氏子間で順番について紛争が起きたことなどが関係しているそうです。どちらも立てて、大岡裁きというところでしょうか。
七宝丸
奉行列図
曳山の台車
玄界灘に臨む唐津(佐賀県)は古くから中国大陸に日本で一番近い港として発達した町です。慶長年間(1600年頃)豊臣秀吉の臣、寺沢志摩守広髙が唐津(舞鶴)城を築き、城下町として栄えてきましたが、唐津の産土神(うぶすながみ)である唐津神社の秋祭り(からつくんち)は築城前から行われていました。敬神の念の篤い唐津の町人たちは、文政2年(1819年)に刀町の有志が赤獅子を作り奉納しましたが、それ以後明治9年までの57年館に15台のヤマを次々に各町が競って作り奉納しました。