唐津城
観光唐津のシンボルでもある唐津城は、別名舞鶴城とも呼ばれています。
所在地:佐賀県唐津市東城内
入城料:大人¥400-. 小人¥200-.
開館時間:9:00~17:00(入館は16:40まで)
休館日:12/29~12/31
桜、藤、ツツジの名所として四季折々の美しさを楽しむことができます。
豊臣秀吉の臣寺沢志摩守広高が、慶長7年(1602年)から7年の歳月を費やして、慶長13年(1608年)に完成しました。現在の唐津城は、昭和41年10月に完成したものです。天守台跡に慶長様式を取り入れて、文化観光施設としてつくられました。
周囲約1km、面積4.3ヘクタール、海抜43m、天守閣は、五層五階、地下一階、郷土博物館、展望所等があります。
寺沢氏に次いで、大久保、松平、土井、水野、小笠原の諸氏が城主に任ぜられましたが、廃藩置県により明治10年から本丸跡は現在の舞鶴公園となりました。展望所からは、松浦潟の全景が一望に収められます。唐津城は、東の浜と西の浜を両翼に見立て舞鶴城とも呼ばれています。
唐津城
唐津城は慶長13年(1608年)に完成した平山城です。城を築いた寺沢島守広高は豊臣秀吉の側近で、築城には名護屋城の解体資材を用いたといわれています。城は本丸・二ノ丸・三ノ丸・外曲輪に分かれ、本丸には天守台、二の丸には藩主の住居と藩庁があり、三ノ丸にはほとんどの藩士が住み、外曲輪には町人が居住し、町奉行所がおかれていました。
城には寺沢氏以降は代々譜代の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入城しました。寺沢氏の十二万三千石ではじまり、廃藩前は六万石でした。明治10年から本丸跡は現在の舞鶴公園として一般に開放され、藩主の住居は高校敷地となっています。
周囲約1キロ、面積4.3ヘクタール、海抜43メートルにそびえる現在の唐津城天守閣は、天守台跡に慶長様式で、文化観光施設として昭和41年に完成したものです。天守閣は五層五階、地下一階で博物館、展望所等があり、展望所からは、松浦潟の全景が一望におさめられます。また唐津城は別名舞鶴城ともいわれ、観光唐津のシンボルとして皆様に親しまれております。(現地案内板より)
唐津の由来
唐津という地名がいつ頃から使われていたのか不明ですが、正平23年(1368年)には、「唐津」という字が古文書に見られます。唐は当時、大陸の国々を意味し、津は港を意味しますので、古くから大陸への出入国として知られていた土地柄です。
また、瀬戸内や日本海側で陶磁器のことを「からつもの」と呼んでいますが、昔この辺り一帯で焼かれた大量の陶磁器が唐津を経由して日本各地に持ち込まれたことの名残かと思われます。(唐津城パンフレットより)
唐津城の一之門
所在地:佐賀県唐津市東城内
櫓門である一之門も復元されたものです。
巴丸瓦
軒丸瓦は、火災除けの巴紋がデザインされた、巴丸瓦が使われていました。
巴丸瓦
鯱
陣幕紋
唐津城の瓦には、寺沢家の家紋がデザインされていました。寺沢家の家紋は、陣幕紋または三ツ幕紋と呼ばれるものです。寺沢家は、息子の堅高の自殺により、唐津藩は改易、藩主寺沢氏は廃絶してしまいました。寺沢家の家紋は、蟹が描かれた蟹紋もあったそうです。唐津城は海に近いので、蟹の紋だったら面白かったかもしれません。
こちらの瓦には小笠原家の三階菱紋がデザインされていました。
舞鶴公園のホルトノキ
推定樹齢:300年
樹高:20m
幹回り:5.8m
枝張り:10m
この樹木は、佐賀の名木・古木に登録されている約900本の中から100選として選ばれたものです。
平成16年3月 佐賀県(現地案内板より)
このホルトノキは樹齢300年を超えており、根廻り5.8m、樹高は約20m、幹は地上1メートルの所から四方に広がり、その枝張りは独特の景観を誇るものです。今なお樹勢は盛んで、佐賀県下はもちろん九州においても代表的な価値のある巨木です。
分類ではホルトノキ科に属し、常緑高木で7月から8月にかけて白い小さな花が咲き、葉はヤマモモ、果実はオリーブの実と似ており、千葉県以西、四国、九州、沖縄に分布しています。
ホルトノキはポルトガルの木の意味で、昔ホルトノキの実をオリーブと混同してホルトノキと呼ぶようになりました。
平成5年3月 佐賀県(現地案内板より)
展望所からの眺め
唐津城の5階にあります展望所からは、虹の松原や鏡山、唐津市街、唐津湾、宝くじの当選で有名な宝当神社があります高島(たかしま)などもみえます。お天気がいいと更に見える範囲が広がり、素晴らしい景色を眺めることができます。