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真宗大谷派 釜山海 高徳寺

豊臣秀吉から授かった山号「釜山海」という珍しい山号のお寺です。

高徳寺1

所在地:佐賀県唐津市中町1912番地
本願寺の朝鮮開教は天正13年(1585年)をそのもの始めとする。織田信長の近従の奥村掃部介(かもんのすけ)と称する武士があった。  信長の死後、本願寺教如上人に帰依し、法名を浄信は支那布教の雄図を懐き上人に請うて許しを得、天正13年2月まず釜山に渡航し釜山海高徳寺を創立した。釜山に一宇を建立したのが文禄元年(1592年)であった。文禄の役に遭ってまず釜山をひきあげた。浄信は慶長3年(1598年)夏再び渡航したものの同年12月には帰国している。浄信は、慶長6年(1601年)以降唐津初代城主寺沢志摩守に請われて唐津に定住するのである。(現地案内板より)

高徳寺3

奥村五百子誕生の地

社会活動家・愛国婦人会創設者
弘化2年(1845年)当地高徳寺生まれ・明治40年(1907年)没 享年61歳
父は京都公家出身の真宗大谷派釜山海高徳寺の住職奥村了寛で、その影響を受けて尊王攘夷運動に参加する。
18歳の文久2年には、男装で長州藩への密使を勤めたこともあった。また朝鮮半島に渡って光州に実業学校を創設し、浄土真宗布教のため半島に渡った兄円心を助けた。
北清事変(義和団事件)後、兵士慰問や救護、遺族支援の必要性を訴え、明治34年(1901年)、わが国最大規模の婦人団体愛国婦人会を創設した。この間、政官界との人脈を生かし旧松浦橋架橋、唐津鉄道、唐津港湾開発等に多大な貢献をした。
60歳の時、健康すぐれず帰郷、翌年満61歳の生涯を閉じた。
銅像が地元婦人団体の寄付によって建立され、遺品は小笠原記念館・唐津城・高徳寺に保存されている。
平成28年5月 一般社団法人 唐津観光協会(現地案内板より)

高徳寺2


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