高伝寺山門
所在地:佐賀県佐賀市本庄町大字本庄1112-1
山門の前には、石造りの太鼓橋があり、参道橋と呼ばれています。山門の山号額には、「慧日山」と記されています。
高伝寺の山門
龍造寺家兼(剛忠)は、戦国時代という乱世の中にあって深く仏道に帰依し、仁慈に富む武将でした。家兼は、鍋島清久(直茂公の祖父)を見出し、肥前佐賀の土台とも言うべき、龍造寺・鍋島の両家を結ぶ最初の人といえます。永正から天文(1504年~1553年)に至る三十余年間に亘って法華経一萬部を誦誦し法要を営み、経巻を納め徳政を施しました。この由緒に習い、鍋島歴代藩主が奉納された萬部塔は11基を数えます。
江藤新平・島義勇等の佐賀の役でなくなった招魂碑のある現在の、佐賀市水ヶ江の「萬部塔」です。髙傳寺にある龍造寺家正統の墓碑は、位牌とともに、明治4年、11代最後の藩主鍋島直大公によって、諸方の寺に散らばっていたものを、移されたものである。(現地案内板より)
山号額
山門に高くかかげられた「慧日山」の山号額は有名な即非禅師(明国の僧)の筆で、古書を愛する人の目にとまっています。
高伝寺の山門横の塀(白壁)
高伝寺山門の両脇の壁(塀)には、菱形の格子窓のようなものがあり、とってもおしゃれでした。白梅と枝垂紅梅がちょうど満開でした。
「葉隠」髙傳寺からの風景
大慈悲心を起こして人のためになるべき事(葉隠四誓願)
髙傳寺、肥前の歴史を刻んだ龍造寺、鍋島両家の祖霊を祀る里である。両家の「縁」をその「始め」とする「葉隠」ですが、冒頭にはつぎのように語られています。
「鍋島家の家来あるならば国学、すなわち、鍋島の歴史、伝統、家風に強い関心をはらわなければならない…。近ごろの者はこのようなことも忘れて余所の仏を崇めているが、釈迦も孔子も楠木も信玄も一度龍造寺、鍋島の家に仕えたことはなく、わが「家」の流儀には合いはしないのである」。
この書の口述者山本常朝の「思い」は、つぎの有名な言葉に極まります。
「武士道と言うは死ぬことと見つけたり」慈悲心、(菩提心)無き者への言葉であろうか、それとも菩提心に溢れる人の「心」そのもであるか―静寂な里に立つ髙傳寺の歴史から観えてくるものは「淵遠の輝き」そして「燦」として伝わってくる尊い「仏縁」という煌めきです。髙傳寺に伝わる「釈迦堂」や「涅槃像」は法華信仰(釈迦信仰)に基づいたものである。そして、「葉隠」の冒頭(夜陰の閑談)の中で、山本常朝の力説するところの「御家の根本とも言うべきものでしょう」。(現地案内板より)