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高伝寺御霊屋風景(墓所)

仏殿の西裏にある、約1800坪(6000平方メートル)の御墓所です。

高伝寺墓所1

所在地:佐賀県佐賀市本庄町大字本庄1112-1
高伝寺本堂の裏手に御霊屋(おたまや)があります。御霊屋は墓所のことで、佐賀市指定史跡です。6,000平方メートルある、大変広い墓所です。
御霊屋の正面と東側一帯は龍造寺隆信をはじめ龍造寺正統の墓碑が並んでいます。西側一帯には鍋島家正統の墓碑が並んでいます。

高伝寺墓所2

佐賀市指定史跡 御霊屋風景

 仏殿西裏にある約1800坪(6000平方メートル)の御墓所のことで、書寺に離散していた墓石・石塔を最後の鍋島藩主鍋島直大公によって、明治4年に集められたものです。墓前に建ち並ぶ数百基の石灯籠をはじめ、その遊惰な設計デザインは藩政時代の面影を偲ばせます。墓所の正面と東側一帯は龍造寺隆信をはじめ龍造寺家正統、西側一帯には鍋島家正統の墓碑が並んでおります。
 その中で十代藩主直正公夫人(文肅夫人・将軍徳川家斎公の女盛姫)の毛髪を祀った儒教様式の饅頭塚は特に異彩を放っています。
 また、島原の陣、柳河の陣、今山の陣など、大小合戦で討ち死にした幾多の勇士の墓や、殉死した中心の墓も、それぞれ藩主のそばに見られます。(高伝寺のパンフレットより)

高伝寺墓所3

ずらーっと並んだ墓碑や石灯籠や石塔と満開の白梅と紅梅が織りなす美しい景色が印象的でした。

高伝寺墓所4

高伝寺墓所5

高伝寺墓所

種別:佐賀市史跡 指定年月日:昭和42年2月11日
 この墓所は、明治4年(1871年)に鍋島家当主直大が各地に散在していた龍造寺家並びに鍋島家の墓を改葬し、整備したものである。
 龍造寺家の墓塔10基が東側に、鍋島家の墓塔16基が西に整然と並んでいる。墓域は明るくて広く、独特の雰囲気と調和の美を表わしていて、一種の墓地公園の様である。
 ここは、近世の墓塔の変遷や佐賀の近世史を研究する上からも史料的価値が高い。(現地案内板より)

高伝寺墓所6

鍋島七代藩主 信濃守重茂公墓所

鍋島七代藩主 信濃守重茂公  大弘院殿道聰良廓大居士
明和7年(1770年)庚寅閏6月10日卒
鍋島重茂 享保18年7月18日(1733年8月27日)~明和7年閏6月10日(1770年8月1日)享年38歳

高伝寺墓所7

李慶公宿阿の墓所

龍造寺家初代の遠祖、李慶公宿阿と号す
宿阿常榮大禅定門 年不詳
西行法師の叔父に当たるといわれています。西行法師の俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)憲清、則清、範清とも記されることがあります。李慶は、藤原秀郷六代の孫で、西行法師の叔父といわれています。後に兄の子西行とともに四方に行脚したといわれています。西行と龍造寺家の繋がり、興味深いです。

高伝寺墓所8

肥前守齊直公墓所

鍋島九代藩主 肥前守齊直公墓所
巍松院殿桂翁道榮大居士
天保10年(1839年)己亥正月28日卒 鍋島齋直(なべしまなりなお)安永9年9月23日(1780年10月20日)~天保10年1月28日(1839年3月13日)享年60歳

高伝寺墓所9

龍洞院殿大雲宗長大居士墓所

十七代龍造寺肥前守政家公
慶長12年(1607年)丁未10月2日卒
24歳の時、病弱のために久保田邑に隠棲。慶長12年(1607年)に息子の高房が乱心して自害未遂を起こしました。高房は、これが元で亡くなりました。同年に政家も後を追うように死去しました。政家の死により、大名としての龍造寺宗家は断絶しました。

高伝寺墓所10

饅頭塚

数々の墓石等の中で、十代藩主直正公夫人(文肅夫人・将軍徳川家斎公の女盛姫)の毛髪を祀った儒教様式の饅頭塚は特に異彩を放っています。鍋島十代藩主 直正公御室 文肅夫人のお墓です。弘化4年(1847年)丁未2月3日
文肅夫人は十一代将軍徳川家齊の28番目の子供(娘)で、盛姫と呼ばれていました。高伝寺の庫裡の2階の床の間には、文肅夫人が写経した薄い紙でこよりを何十万本も作り、そのこよりで作られたお地蔵さんが安置されています。文肅夫人の父、将軍家斉が天保12年(1841年)に没した後、父の追善供養のためこのこより地蔵がつくられたと言われています。

高伝寺墓所11

無縫塔

慧日山高伝寺 開山玲巌玄玻大和尚並びに 歴住諸大和尚 無縫塔(墓)
無縫塔(むほうとう)は、主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)のことです。

高伝寺墓所12

高伝寺墓所には、副島種臣の墓と枝吉神陽の石碑もあります。
≪副島種臣の墓と神陽の碑文≫
幕末、江藤新平、副島種臣、大隈重信など多くの佐賀、維新の志士を育てたのは枝吉経種(号神陽)というあたかも長州の吉田松陰に比べられる立派な人物でした。
副島種臣は神陽の実弟に当たり薩摩の西郷隆盛との友好は、有名であるが、巨星二人は武士道の光を放って、滅することがない副島種臣(明治の参議、外務卿など歴任、学者でもあり、書家としての名声もまた大である。)幕末の名君といはれた十代藩主(閑叟公)は明治という歴史とともに神式によって弔われたが、(1999年2月佐賀大和の春日の御墓所に移転)明治の元勲副島種臣は藩主の思いとともに髙傳寺に眠っている。(現地案内板より)

高伝寺墓所13

高伝寺墓所14

高伝寺墓所15

高伝寺墓所16

高伝寺墓所17

高伝寺墓所18

高伝寺19

高伝寺墓所20

太鼓橋があり、石の鳥居があるところに、「髙傳寺墓所 龍造寺・鍋島両家の御墓所入口」と書かれていました。

高伝寺墓所21

高伝寺22


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