神野公園
こどもの遊園地、小動物園、日本庭園、茶室、睡蓮池や様式庭園、江藤新平の銅像などもあります。
所在地:佐賀県佐賀市神野4丁目1番3号
開園時間:9:30~17:00
定園日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日)・12/29~1/1・雨天時は臨時休園となる場合もあります。
利用料:無料
神野公園は、弘化3年(1846年)に佐賀藩鍋島直正の別邸として造られました。神野のお茶屋と呼ばれ、迎賓館的な役割もしていました。
現在は、こどもの遊園地、小動物園、日本庭園、茶室、睡蓮池や様式庭園もあります。神野公園内には、幕末から明治にかけて活躍した江藤新平の銅像もあります。とても広い公園で、ゆっくり楽しく散策できました。
キンケイ
神野公園
旧藩主鍋島閑叟公の別荘で弘化3年(1846年)造成、一般に「神野のお茶屋」と呼ばれていたが、大正12年に公園といして、市民に開放された佐賀市が管理することになりました。公園には、多布施川の清流を引いて池を造り小山を築いて四季の植物を配した日本式庭園と、水練池や展望台を備えた様式庭園があり、小動物舎、遊園地なども設置されています。又桜の名所として、市民に親しまれています。(現地案内板より)
清風
台座に「清風」と記された女の子の銅像が立っていました。
江藤新平の銅像
江藤新平の銅像は、神野公園の中にあります。
江藤新平は、幕末から明治初期にかけて西郷隆盛とともに活躍しました。「ますらおの涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」とうい句を詠んでいます。
江藤新平は、僅か5日間の裁判で、その日のうちに処刑されました。江藤新平はまだ41歳でした。どれだけ無念だったことでしょう。
「裁判長…」と言った後、朝廷から引きずり出されたそうですが、その「裁判長…」の後に、言いたいこと、伝えたいことがどれだけあったことでしょう。時代とはいえ、裁判の残酷さ、恐ろしさ、不公平さを感じます。
江藤新平について
江藤新平は、天條5年(1834年)2月9日佐賀郡八戸村(佐賀市鍋島町八戸)で佐賀藩士の家に生まれた。幼少から勉学に励み、藩校弘道館に学んだほか、枝吉、神陽、石井松堂などにも師事したが、早くから尊王派同志の義祭同盟にも参加した。
維新の風雲が急を告げるや文久2年(1862年)脱藩して京都に上り、勤王派の公卿や薩摩、長州などの志士とも交わって大いに画策するところがあったが、佐賀へ連れ戻されて脱藩の罪に問われ、辛うじて死は免れたものの終身閉居を命じられた。
慶応3年(1867年)徳川幕府が大政奉還した後、罪を許され郡目付として京都へ上る。翌年朝廷の徴士となり、征伐大総督府の軍監として江戸開城に立ち会う。また彰義隊討伐と江戸遷都を建議。その後、江戸の民政参政に任命されて藩政改革に取り組んだ。同年秋、新政府の要請により再び東京へ上り、中弁に任命されて廃藩置県案、賞典制度案、陸海軍備方策などを作成し献案した。
明治4年文部大輔、左院副議長、同5年司法卿、同6年参議と要職を歴任し、文教制度の確立諸法規の制度に尽くした。明治6年10月征韓の議が否決となったため、西郷隆盛らと共に参議を辞任し下野。同7年1月佐賀に帰って征韓等の党首に推された。同年2月岩村高俊権令が熊本鎮台兵を率いて佐賀に入城したため、島義男の長国党と共にこれを攻めた。いわゆる佐賀の役勃発。最後はこの戦いに敗れ、同年4月13日佐賀城内で処刑された。時に満40歳。大正元年(1912年)罪名消城。大正5年正四位を復位追贈された。
その最後は悲痛を極めたが、江藤卿が初代司法卿として近代的法制と諸管制の創建、司法権の独立、汚職の摘発、人権の擁護などに身をもって当たった不滅の功績は永く歴史に残るであろう。
昭和51年4月14日 江藤新平卿記念碑建設委員会 (碑文より)