築地反射炉跡
所在地:佐賀県佐賀市長瀬町9-15
日新小学校の校庭の一画にある日本初の洋式反射炉の跡です。現在は反射炉とカノン砲の復元模型があります。
築地反射炉は、日新小学校敷地を中心とした範囲に所在したものとされています。反射炉は、鉄などの金属を大量に効率よく溶かす炉です。幕末期、この地に大銃製造方という役所をおき、日本最初の洋式反射炉を完成させ、国内で初めて鉄の大砲の鋳造に成功しました。
信頼性が高く優れた大砲を鋳造した佐賀藩には、幕府からも大砲の注文が大量に入り、築地だけでは製造が間に合わず嘉永6年(1853年)年に多布施反射炉も増築しました。10代藩主鍋島直正公は、他に先駆けて最先端の科学技術を学び、実用化したのは、先見の明があり、また実行力も優れた方だったのですね。今の政治家にこのような方がいらっしゃったら、きっと画期的な打開策で、国難を乗り切って下さるでしょう。
築地反射炉
日本初めての鉄を生んだ溶鉱炉 嘉永3年12月12日火入式
嘉永3年(1850年)12月12日、わが国で最初に築造された佐賀の反射炉が、日本近代工業のあけぼのをつげた。幕末、黒船の来航など国内騒然とした中に佐賀藩主鍋島直正は世界の大勢を説き、海防を献策したが、幕府はこれを聞き入れなかった。そのため佐賀藩は独力で、この地に反射炉の建設にとりかかり、失敗を重ねたあげく、わが国最初の工業用鉄精錬と鉄製大砲の製造に成功した。
嘉永6年、ペリー来航にあわてた幕府、佐賀藩に「公儀用大砲200門鋳造」を委嘱。佐賀藩技術陣は苦難に耐えこの大任を果たした。本碑は日本近代工業の先駆をなした郷土佐賀人の進取性と真摯な営みの歴史を顕彰するものである。
昭和50年12月(碑文より)
築地反射炉跡 24ポンド砲(復元模型)
所在地:佐賀市長瀬町9番15号
日新小学校の校庭の一画にあります。反射炉の模型の隣に24ポンド砲の復元模型もあります。杏葉の紋の右に「佐賀藩のカノン砲」と記されています。
大砲を造るには、高度な溶解技術のみならず、砲身に孔を穿つ技術も必要となります。当時佐賀藩では、天祐寺川に堰を設け、水路を引き、水力を用いて、水車の回転運動を利用しました。
築地反射炉
種別:佐賀市史跡
名称:築地反射炉跡
指定年月日:昭和42年2月11日
佐賀藩は、寛永18年(1641年)以来、幕命によって福岡藩と1年交代で長崎警備の任務についていた。その装備は、諸外国と比べると薄弱であった。10代鍋島藩主直正は、防衛の任務遂行を懸念し幕府にその旨を献策したが受け入れられなかった。かねてから西洋文化に関心を示していた直正は、嘉永3年(1850年)、この地に、藩独自で洋式反射炉を築造し、築地大砲鋳造所を設け、長崎台場の防衛用大砲を製造した。
嘉永6年(1853年)、その威力を幕府から認められ、大砲の鋳造依頼があったので、多布施に新たに反射炉を築き、公義石火矢鋳立所を設置し、幕府向けの大砲を製造した。嘉永5年から慶応年間までに佐賀藩が製造した大砲は、あわせて271門におよんだ。現在は、反射路の模型のみが昔の面影を残している。(現地案内板より)
佐賀藩鋳造鉄製24ポンド砲 わが国最初の鉄製カノン砲 復元
佐賀藩は、寛永19年(1642年)から長崎港の警備にあたってきたが、文化元年(1804年)露国使節レサノフの来航、同5年(1808年)イギリス軍船「フェーン号」の長崎港侵入があり、長崎港の警備はそれ以来緊迫した空気に包まれた。
鍋島直正が10代藩主につくと、これに対処するため長崎港台場の増設と洋式大砲の設置を痛感し、嘉永3年(1850年)築地(今の日新小学校)に反射炉を築き日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。
嘉永6年(1853年)ペリーが来航すると、幕府は江戸湾防備のため品川に台場を新設し、大砲を佐賀藩に注文した。そこで佐賀藩では、多布施に公儀用の反射炉を増築し(佐賀駅北口にその模型がある)
安政3年(1856年)までに24ポンド砲25門、36ポンド砲25門を治めた。さらに150ポンド砲3門を幕府に献上した。又当時、世界で最高の技術を要するアームストロング砲を佐賀藩では元治、慶応年間に3門鋳造することに成功している。この大砲は、この時品川砲台に備えられたものの一つであって、その頃のわが国科学技術の最高水準をうかがうことができる。
昭和52年12月12日(1977年) 佐賀県機械金属工業会連合会(碑文より)
大砲生産の「築地反射炉」 日新小の敷地内・北西に
幕末期の佐賀藩が鉄製大砲生産のために日本で初めて築造した築地(ついじ)反射炉の場所について、神埼市の郷土史家が17日、佐賀市長瀬町の日新小学校敷地内の北西寄りにあったとする見解を明らかにした。佐賀藩の幕末の記録を調べ、場所を絞り込んだ。反射炉本体の位置は分かっておらず、佐賀藩の近代化遺産の「世界遺産」登録を目指す佐賀市教委が調査を続けている。新見解が位置確定につながることが期待される。
郷土史家の樋口浩康さん(67)が佐賀市の徴古館で発表した。樋口さんが注目したのは、幕府の役人が嘉永7年(1854年)、築地反射炉を視察した際の佐賀藩の記録「公役人御鋳立方并(おいたてかたならび)築地御立寄録」。反射炉などの配置を4枚にわたって図示していた。樋口さんは絵図をつなぎ合わせ、方角や水路の位置などから、反射炉の場所が日新小敷地の北西部、現在、校舎が立っている位置に当たると判断した。
昭和15年(1940年)の「県史蹟名勝天然記念物調査報告」にある「反射炉の図」などとも合致するとしている。樋口さんは「存在は知られていた資料だが、精査して位置関係が明らかになった。佐賀の宝である反射炉の調査が進む一助になれば」と話す。
佐賀市教委は、世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産に加えようと築地反射炉を調査。昨年、日新小敷地東側の駐車場付近を発掘し、大砲製造過程で出る鉄くずなどが見つかったことから、反射炉本体の遺構が近くにある可能性が高いと見ている。
市世界遺産調査室の前田達男室長は「これまでは広範囲の発掘が可能な駐車場などで調査してきた」とした上で、「今回の見解で反射炉が敷地西側の校舎付近にあったとの説が補強された。一帯は校舎や配管があり、問題は山積するが、今夏の調査を検討している」と話す。(2011年5月18日の佐賀新聞の記事より)