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佐賀の役招魂碑

明治7年(1874年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ、佐賀の役の招魂碑です。

佐賀の役招魂碑1

所在地:佐賀県佐賀市水ヶ江一丁目1-7 万部島
佐賀城の近くにある万部島(まんぶじま)にあります。万部島は、以前は周囲がお堀で囲まれた島だったそうです。現在は陸続きになっていますが、堀も残っています。

佐賀の役招魂碑2

佐賀の役招魂碑は地上2m位の高さの台座に、亀趺(亀の台座)があり、その亀の背中からにょきっと高い碑が聳え立っています。かなりインパクトが強い石碑です。台座の亀(亀趺)がかなり高い位置にあるので、残念ながら下から見える部分しか写すことができませんでした。

佐賀の役招魂碑3

その左横には、江藤新平、島義勇ら216名の名が刻まれた角柱が建っています。大正9年(1920年)に、二つに別れていた招魂碑を現在地に移したそうです。明治7年佐賀戦争で戦死や処刑された江藤新平、島義勇ら216柱を弔うために明治18年に地元の有志によって建てられました。毎年4月13日には、佐賀戦争の戦死者の霊を祀って慰霊祭が行われています。

佐賀の役招魂碑4

佐賀の役は、明治7年(1874年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つです。佐賀戦争とも呼ばれます。以前は佐賀の乱とも呼ばれていましたが、現在は佐賀の乱という言葉は使わないそうです。詳しくは、下段の新聞記事の抜粋をご参照ください。
不平士族による初の大規模反乱でしたが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応などにより、激戦の末に鎮圧されました。江藤新平は東京での裁判を望みましたが、大久保利通は急遽設置した臨時裁判所において、権大判事河野敏鎌に審議を行わせました。たった2日間の審議で、明治7年(1874年)4月13日に、江藤・島ら13名に死刑判決が下り、即日処刑されました。江藤新平は斬首され、島義勇は斬首のうえ梟首されました。なんとも惨いことです。

佐賀の役招魂碑9

「佐賀の乱じゃない」

(平成21年6月12日金曜日 朝日新聞の記事より抜粋)
 明治維新樹立後の士族の反乱のうち、佐賀藩出身の江藤新平を中心におきた「佐賀の乱」について、「国を乱したという印象を持たれる。表現を改めるべきだ」という意見が地元で持ち上がっている。新平は「首謀者」として処刑されたが、「新政府に仕組まれた戦争」とする学説も登場。歴史教科書の表記をめぐっても議論が起きている。
 論争の火付け役は「幕末維新と佐嘉藩」(中公新書)などの著書がある毛利敏彦教授で、平成21年4月にあった講演では、佐賀の乱を不平士族の反乱とする通説に対し、「大久保利通が一方的に仕掛けた」との自説を紹介した。
 ただ、「乱」を「役」に改めるのには否定的。「『役』という言葉は国家権力の発動によって人民に無理を強いること。史実からすれば、中立的に『佐賀戦争』と言うべきだ」と話している。 佐賀市内で毎年開かれる新平らの慰霊祭では「佐賀の役」と呼ばれ、「佐賀の役記念碑」もある。江藤新平のひ孫の江藤兵部さんは「小さな頃から佐賀の乱と言われ続けてきたが、事実と違うという研究が進んできた。子孫の一人としてはありがたい話で、歴史認識を改めるきっかけにしてほしい。」と話す。

佐賀の役招魂碑10

佐賀の役招魂碑5

佐賀の役招魂碑8

万部島

以前は佐賀城の東堀に半島状に突き出た場所があり、ここが万部島(まんぶじま)でした。万部島は、領国の安泰や領民の無事、五穀豊穣を願って、歴代佐賀藩主主催による法華経一万部の読経が行われた所で、それを記念する石塔群が建てられています。
 万部島の由来は、永正2年(1505年)、龍造寺家兼主催による法華経一万部の読経がなされ、次いで天文14年(1545年)にも2回目の法華経読経がなされ、それ以来「万部島」と呼ばれたそうです。

佐賀の役招魂碑6

佐賀の役招魂碑7


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