旧森永家
かつてタバコ製造や呉服販売で財を成した森永家の旧邸です。
所在地:佐賀県佐賀市柳町4番7号
昭和9年まで呉服店を営んでいました。江戸時代には、佐賀藩御用達のたばこ、富士の煙を製造していたそうです。右隣が煙草の製造所跡です。
寛政年間から藩より命を受け、初代森永十助が煙草の製造を始めたと伝えられています。明治になって、森永作平によって製造された「富士の煙」は、当時東京で有名だった「天狗」より香りがよいと評判を呼び、佐賀の名物の一つとなりました。大隈重信も愛煙したと言われています。煙草専売化に伴い呉服店へと転じ、昭和9年まで呉服店を営んでいました。
看板
長崎街道に面する北蔵には、森永呉服店の看板が現在も残っています。
現在北蔵には和紅茶専門店「紅葉」、居宅には鍋島緞通の製作実演をしている「織物語」、南蔵には佐賀の工芸品販売の「さがしもの」がテナントとして入っています。
北蔵 表から
改装前
道路に面した2階の窓には、銅板の防火扉が取り付けられています。
呉服恵比須
所在地:佐賀県佐賀市柳町4-7 旧森永家
呉服恵比須
半跏恵比須
※現在はこちらの建物はありません。
富士の煙 製造所跡
長崎街道名産「富士の煙」製造所跡
佐賀のタバコ製造販売が本格的になったのは、江戸時代の寛政年間(1789年~1800年)である。六代の祖、森永忠左エ門が肥前鍋島藩の御用煙草として、現在地で「幾作美御多葉粉(きざみおんたばこ)」の銘柄で製造販売に務め、佐賀の銘品として広くその名を知られるようになった。芳薫の妙味で名を広めた「富士の煙」は、薩摩の国府葉(こくふば)、豊後の竹田葉(たけだば)、筑前の久喜宮葉(くぐみやば)などを直接買付けて今宿港の倉庫に荷揚げし、熟成した後、刻箱(きざみばこ)に移して吟味調整したものである。
その後「富士の煙」は最新型の紙巻煙草に改良され、当時の大隈重信もそれを愛用し、紫煙の輪をふかし、例の大風呂敷で訪問客を煙に巻いたといわれている。政府は、日露戦争の戦費捻出のため、明治37年7月1日専売法を公布した。それに伴い民営の煙草製造はすべて官営として吸収、移行されることになり「富士の煙」も姿を消すことになった。(現地案内板より)
右側の空き地が、富士の煙製造所跡です。