城雲院
400年ほどの歴史を刻んできた曹洞宗の寺院です。城雲院内には、相良知安先生墓所があります。
所在地:佐賀県佐賀市唐人2丁目7-5
寺宝に、誕生図・涅槃図・洪浩然の大屏風一双などがあります。
相良知安先生墓所
所在地:佐賀県佐賀市唐人2丁目7-5 城雲院内
我国近代医学制度創設の功績者 相良知安(さがらともやす)
相良知安は、佐倉順天堂で佐藤泰然に医学を学び、長崎精得館でオランダ人医師ボードインから医学を学びました。明治政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言し、その説が採用されました。しかし、後に波乱万丈の人生を送り、明治39年(1906年)にインフルエンザに罹患し、ひっそりと亡くなったそうです。
相良知安先生墓所
初代東京医学校校長 相良知安
店舗7年佐嘉城下八戸町に生まれ、幼名を弘庵と言った。
生来明敏強情な弘庵は佐賀藩医学校、佐倉佐藤尚中の順天堂塾、長崎の精得館に進み蘭医学の研鑽を積んだ。其の後、佐嘉に帰り、名君鍋島直正の侍医を命ぜられ、慶応4年直正に従って上京した。明治2年1月新政府から医学校取調御用掛に任ぜられ、医学制度改革を命ぜられた。続いて徴士、大学少丞、権大丞に抜擢された。
ここに新日本医学は従来の蘭英医学を廃して、専らドイツ医学に依るべきことを強く建議し、東奔西走してその要を説き、明治2年5月遂に容れられた。明治5年第一大学区医学校校長、文部省築造局長兼医務局長に任ぜられ、医学体系をドイツ式に整え、世界に冠たる現代日本医学の基礎を確立した。その業績は、誠に不滅偉大と言うべきである。(現地案内板より)