明宝山 真覚寺
元禄12年(1699年)に建立された、総ケヤキ材の鐘楼があります。
所在地:佐賀県佐賀市伊勢町6-22
永禄年間(1558年~1569年)に創建された浄土真宗の寺院です。
本堂
鐘楼
元禄12年(1699年)鍋島家三代綱茂公時代、この地に建立されたものです。総ケヤキ材を使用しています。
鐘楼
種別:佐賀市重要文化財(建造物)
名称:鐘楼一棟
指定年月日:昭和50年2月11日
浄土真宗真覚寺の鐘楼は、元禄12年(1699年)に建立されたものである。
桁行2.81メートル、梁間2.55メートルで平面は正方形に近く、軒の高さは3.40メートルである。屋根は本瓦葺、切妻造りで、又、柱は方柱で江戸風な細い面がとってあって、わずかに内転びに建てられている。柱下の礎石は30センチメートル角、厚さ6センチメートルの平石で基壇は高さ60センチメートルの乱石積み、床は粘土たたき仕上げである。
屋根の重厚さに対して、吹き流しの四本柱の架構は簡明すぎる感じはするが、よく観察すると、上中下三段の貫で絞め固められた柱は、やや内側に倒れて踏ん張っていて、いかにも男性的な力強さを表現しているようである。また、外観も調和がとれて美しい。用材はすべて欅材である。
時代と共に消えてゆく古建築の中で300年以上もの長い間、風雪に耐えてきたこの鐘楼は県内の寺院建築の中でも、その価値は高く評価される。
梵鐘
重量:623kg
直径:81cm
音響到達:約6km
元禄12年建立の旧梵鐘は、昭和18年戦争のため供出させられたが、その音のことは城下の町々のわらべ唄として残っている。
お城の太鼓はドーン、願正寺の鐘やガーン、真覚寺の鐘やシーン、三つ合せてドッガンシン[毒顔疹(どくがんしん)はあばたの意味の佐賀の方言]
この鐘は昭和49年再建新鋳のもので、鐘のいのちのしるしとして、担信徒先祖代々の遺骨一片と法名銅板数千名分、子孫現存者の髪爪が鋳込まれているものである。(現地案内板より)
水舟ととぎ石
水舟は、日本刀鍛錬のさい、焼き入れに使用する水槽であって、肥前国忠吉一門が使用していたものである。
とぎ石は、打ち上げた刀を荒ら仕上げする足踏み式の回転砥石であって、忠吉一門が使用していたものである。(現地案内板より)
肥前忠吉一門の墓
種別:佐賀市史跡
名称:初代肥前国忠吉の墓地
指定年月日:昭和48年2月11日
初代忠吉は元亀3年(1572年)現在の高木瀬町長瀬に生まれ、橋本新左衛門と称した。
慶長元年(1596年)上京して埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の門に入り、刀工としての技を磨き、慶長3年(1598年)に帰国して佐賀城下(現在の佐賀市長瀬町)に居を移し、佐賀藩の抱刀工となった。元和10年(1624年)に再度上京して武蔵大掾を受領し、後に銘を忠広と改めている。
日本の刀剣史上、肥前新刀のしめる比重はきわめて大きく、このことは桃山時代末期の刀匠である初代忠吉の功績がいかに大きいものかを裏書しており、初代肥前国忠吉は本県の刀剣史上きわめて価値が高い人物である。
肥前刀の名声高くし、その伝統を創造したのは「大忠吉」すなわち初代の橋本左衛門で、肥前刀の開祖である。
初代忠吉は、元亀3年(1572年)に長瀬村(高木瀬町長瀬)に生まれた。慶長元年(1596年)、藩主直茂に取り立てられて、京都の埋忠明寿の門に入って修行した。同3年帰国すると一族と共に移住し、鍛冶屋町を開いた。これが長瀬町である。墓は、真覚寺(伊勢町)にある。
二代から九代までそれぞれ伝統を継承し、個性を生かしながら、格調高い肥前刀の製作に従事した。二代忠吉から一門の墓は、八戸町長安寺にある。(現地案内板より)
妙覚寺の日親聖人銅像
所在地:佐賀市伊勢町8-12
真覚寺の近くにあります妙覚寺は、正式には竹原山妙覚寺といいます。
応永31年(1424年)に日蓮上人の弟子・日親上人が開山した寺院です。
日親は17歳で小城の松尾山光勝寺(九州探題千葉胤貞建立、現日蓮宗九州総本山)の貫主となりましたが、小城の竹原にも説教所を設け、それが後の妙覚寺となります。さらに寛政3年(1791年)佐賀の伊勢町に堂宇(どうう)を移されました。
日親は、間もなく鎌倉に戻り、将軍足利義政から念仏宗への転派を強制されましたが、聞き入れなかったため迫害されました。妙覚寺には日親の分骨、遭難の際着用していた法衣、その他の記念品があるそうです。
日親上人銅像
昭和12年10月19日建立