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馮翊山 長安寺

長安寺には、刀匠肥前忠吉一門の二代目から九代目までの墓があります。

長安寺1

浄土真宗 西本願寺派 馮翊山 長安寺
所在地:佐賀県佐賀市八戸2丁目4-3
天正6年(1578年)浄因法師が開基したと云われています。
御本尊は、阿弥陀如来像です。
長安寺には、刀匠肥前忠吉一門の二代目から九代目までの墓があります。

長安寺2

天正6年(1578年)に浄因法師によって高木瀬村長瀬に創建。その後、30年を経て慶長13年(1608年)鍋島村八戸(現在地)に移転し現在に至る。(現地案内板より)

長安寺3

肥前忠吉一門の墓

種別:佐賀市史跡
名称:初代肥前国忠吉の墓地
指定年月日:昭和48年2月11日
 初代忠吉は元亀3年(1572年)現在の高木瀬町長瀬に生まれ、橋本新左衛門と称した。
慶長元年(1596年)上京して埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の門に入り、刀工としての技を磨き、慶長3年(1598年)に帰国して佐賀城下(現在の佐賀市長瀬町)に居を移し、佐賀藩の抱刀工となった。元和10年(1624年)に再度上京して武蔵大掾を受領し、後に銘を忠広と改めている。
 日本の刀剣史上、肥前新刀のしめる比重はきわめて大きく、このことは桃山時代末期の刀匠である初代忠吉の功績がいかに大きいものかを裏書しており、初代肥前国忠吉は本県の刀剣史上きわめて価値が高い人物である。
肥前刀の名声高くし、その伝統を創造したのは「大忠吉」すなわち初代の橋本左衛門で、肥前刀の開祖である。
初代忠吉は、元亀3年(1572年)に長瀬村(高木瀬町長瀬)に生まれた。慶長元年(1596年)、藩主直茂に取り立てられて、京都の埋忠明寿の門に入って修行した。同3年帰国すると一族と共に移住し、鍛冶屋町を開いた。これが長瀬町である。墓は、真覚寺(伊勢町)にある。
 二代から九代までそれぞれ伝統を継承し、個性を生かしながら、格調高い肥前刀の製作に従事した。二代忠吉から一門の墓は、八戸町長安寺にある。(現地案内板より)

長安寺4

一つの言葉で

ひとつの言葉でけんかして  ひとつの言葉で仲なおり  ひとつの言葉でおじぎして
ひとつの言葉で泣かされた  ひとつの言葉でそれぞれに  ひとつの心を持っている
(現地掲示板より)


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