曹洞宗 金剛山 宗龍寺
龍造寺山城守隆信公の冥福を祈る菩提寺として、佐賀藩祖鍋島直茂公が佐賀城、城内の鬼門に建立し、城の守護神として崇拝した由緒ある名刹です。
曹洞宗 金剛山 宗龍寺(宗龍禅寺)
所在地:佐賀県佐賀市水ヶ江1丁目1-13
龍造寺隆信公の法号「法雲院殿泰巌宗龍大居士」に因んで宗龍寺と名付けられました。天正16年(1588年)5月、龍造寺山城守隆信公の冥福を祈る菩提寺として、佐賀藩祖鍋島直茂公が佐賀城、城内の鬼門に建立し、城の守護神として崇拝した由緒ある名刹です。
本尊釈迦如来を祀り、大本山を吉祥山永平寺(福井県)とする曹洞宗の禅寺です。佐賀藩主より200石を拝領していました。慶長12年(1607年)江戸で自刃した隆信公の孫、駿河守高房の遺骨を泰長院からこの寺へ移葬したところ、不祥事が続いたので別に天祐寺を建ててそこに祀りました。これが、「佐賀猫化け騒動」の発端と云われています。
裏の墓地には、「佐賀の夜桜」で有名な日本五大騒動の1つである「猫化け騒動」で怪猫を退治したと伝えられる忠臣小森千左衛門の墓があります。龍造寺隆信公の墓も明治4年に高伝寺へ移葬されました。山門を入って北側には、日支事変の際、江湾鎮の旧戦場で壮烈鬼神を泣かしめる最後を遂げた典型的な葉隠武士、空閑昇少佐の墓があります。
また昔、神埼郡三川村箱川を領していた佐々木四郎高綱が宇治川先陣の用いた鞍をこの寺に納めたと伝えられています。明治7年の戦争の際には、中立党であった前出精一郎一派の集会所になっていました。寺の前には、故陸軍歩兵少佐空閑昇君之墓當寺内ニ在という石碑と太平洋戦無名戦士の碑当寺内在という石碑などがありました。(現地案内板より)
曹洞宗 金剛山 宗龍寺
今を去る四百数十年前、天正16年5国2島の大主、龍造寺隆信公の冥福を祈る御菩提所として、藩祖鍋島直茂公が佐賀城東北の鬼門にあたる当地に建立された本尊は釈迦牟尼如来を奉る。寺名は隆信公の戒名である。法雲院殿泰厳宗龍大居士に由来するものである。
寺領は鍋島直茂公より16町8反余、石髙206石を安堵され、当時大広間24間、台所(典座寮)7間4面と云われ大伽藍であった事が伺われる。しかし当山も明治維新によって、廃仏毀釈の余波を受け、又当寺にあった隆信公のお墓も鍋島直大の命によって髙傳寺に移され、寺領も奉還、日日に老朽化し物心両面にわたる大きな影響をうけた。
ここに当山30世住職の念願であった寺が檀信徒の信仰の力と佛天の御加護により、宗龍寺再建がなされ、鎮西の巨利曹洞禅門の道場として、美伽藍の荘厳な姿を誇った。当時を忍ばせる寺に復興した。(現地案内板より)