楠神社
楠公父子を祀る我が国最古の楠神社です。
所在地:佐賀県佐賀市白山1-3-2
龍造寺八幡宮の境内に鎮座する、楠公父子を祀る我が国最古の楠神社です。
拝殿
楠公父子櫻井の駅訣別の像が祀っています。
桜井駅決別とは、桜井の別れ、桜井の駅の別れとも言われ、建武3年(1336年)の湊川の戦い直前に、西国街道の桜井の駅(櫻井の驛)で交わされたという、楠木正成・正行父子の今生の別れのことです。太平記(古典文学)の名場面のひとつでもあります。天皇への忠誠を伝える美談として、戦前の国語、修身、歴史の教科書に必ず載っていたほどです。
拝殿
本邦 創祀 楠神社
御祭神:正一位 楠正成命(くすのきまさしげのみこと)・従二位 楠正行命(くすのきまさつらのみこと
例祭:5月25日
「今もなほ 天津日嗣の御世ぞかし 守らせ給へ 楠の神」 種臣
寛文3年(1663年)佐賀藩の国学者 深江信渓大木英鉄等が京都の仏師法橋宗南に托して楠公父子桜井駅訣別の像を作成し、佐賀郡北原村の永明寺に安置したのに始まる。
降つて嘉永3年(1850年)楠公義祭同盟が結成され、安政元年(1854年)地を龍造寺八幡宮境内に移して楠神社を建立しこの尊像を御神体として奉祀し毎年義祭を盛大に行った。
明治維新の元勲として国事に盡瘁した佐賀藩の大先輩江藤新平、副島種臣、大隈重信等はことごとくこの同盟に加わり後年世に出て名をなした。(現地案内板より)
拝殿
楠正成親子
本邦創祀 正一位 楠神社由緒沿革
楠神社は安政3年(1851年)佐賀藩の執政鍋島安房が造営した。楠公父子櫻井の駅訣別の像が祀ってある。
この木造は寛文2年(1662年)佐賀藩士、深江平兵衛入道信渓、大木英鐵等が京都の佛師法橋宗而に製作を依頼して、同三年佐賀郡大和町永明寺に賞堂を建てて祀った。
それから百八十年後佐賀藩校、弘道館教授枝吉陽等が古文書によって楠公父子像を発見、嘉永3年義祭同盟を組織し信渓の裔深江俊介種禄を盟主として髙傳寺の末寺梅林庵において盛大なる祭典を行った。これが義祭同盟の起こりであり、佐賀勤王論の始まりである。
開明的な十代藩主直正(閑叟公)は義祭同盟を支持、執政案望は自ら盟主となり、安政5年5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。同盟に参加したのは江藤新平(のち司法卿)大木喬任(のち文部卿)副島種臣(外務卿)島義男(秋田県令)ら郷土が生んだ明治維新の元勲として國事に盡瘁した佐賀藩の功臣は悉く此の義祭同盟に参加した。
大隈重信(総理大臣)17歳、久米邦武(東大名誉教授)16歳は、大隈は「この同盟の中から後年政界に立って頭角を現した人も多い、予がこれに加盟したのは、世に出て志を立てるきっかけになったと言ってもよい」と回顧している。
こうして楠公父子の神霊に育まれて明治維新の志士たちが生まれたこの楠公父子の像が佐賀に祀られたのは、かの有名な水戸光圀が建てた湊川建碑「嗚呼忠臣楠子墓」(神戸市湊川神社境内)に先立つこと29年実に我が国初の楠公を祀った神社である。(現地案内板より)
楠正成親子人形
楠正成親子の絵
狛犬
狛犬阿形
狛犬吽形
狛犬吽形
後醍醐天皇
義祭同盟之碑
楠神社の境内には「義祭同盟之碑」と記された大きな石碑がありました。義祭同盟とは、楠公義祭同盟とも呼ばれ、佐賀藩士枝吉神陽が嘉永3年(1850年)に佐賀城下で設立した結社のことです。南北朝時代の武将楠木正成、正行親子の忠義を讃える祭祀(義祭)を執り行う崇敬団体ですが、初期のころは国学者である枝吉神陽(えだよししんよう)が尊王論を広げるための私塾、政治結社的な面が強く、しばしば長州の松下村塾と対比されることがあります。
義祭同盟之碑
明治維新佐賀勤王家会合の先駆をなした義祭同盟は、佐賀藩の学者枝吉神陽に薫陶を受けた志士等が嘉永3年(1850年)本匠村梅林庵に祀る楠公父子尊像の御前において祭典を執行した。これが佐賀勤王論の始まりである。佐賀藩の重役執政治安房(あわ)は義祭同盟を支持、安政5年には八幡宮境内に楠社を創建し自ら盟主となって5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。この同盟に参加したのは疎英島種臣・江藤新平・大隈重信等実に多くの志士たちであった。
この同盟は明治13年まで毎年5月25日に厳粛な義祭を行い、祭典終了後は無礼講として一切格式を問わず談論風発。悲憤慷慨して縦横の論議を闘わし最も意義ある会合となした。これが維新鴻業の原動力となり後年この中より明治政府における大政治家をはじめ数多くの優れた人材を輩出し佐賀藩の面目を躍如として天下に知らしめた。(碑文より)
非理法権天
非理法権天(ひろほうけんてん)、楠正成がその旗に印せし文字
非は理に勝つこと能わず、理は法に勝つこと能わず、法は権に勝つこと能わず、天は宏大にして私無しと云う語にもとずく。(碑文より)