佐賀城・鯱の門
天保9年(1838年)当時の姿を残す門です。佐賀戦争の銃弾跡も残っています。
鯱の門
所在地:佐賀市城内2-18-1
天保年間(江戸時代)に再建された現存する建造物です。国の重要文化財に指定されています。
二重二階の櫓門です。
鯱の門と続櫓
鯱の門には、佐賀戦争時の銃弾の跡が残っています。柱の一部には打ち込まれた銃弾がそのまま残っている箇所もあります。
鯱
鯱の門の棟の両端にある鯱は「建物が火事の際には水を噴き出して火を消す」という故事により取り付けられたそうです。鯱は、火災から建物を守るという意味があります。
鯱
鯱
鯱の門
鍋島家の家紋
杏葉紋は、抱き茗荷紋とよく混同されますが違います。杏葉紋には葉脈を示す筋がありません。先端にも花房がありません。
佐賀城鯱の門及び続櫓
重要文化財 昭和32年6月8日指定
本丸御殿は慶長13年(1608年)から慶長16年(1611年)までの佐賀城総普請により造られましたが、享保11年(1726年)の大火で焼失しました。その後、約110年間は再建されることなく、藩政は二の丸を中心として行われていました。
ところが、この二之丸も天保6年(1835年)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。10代藩主鍋島直正は、それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿の再建に着手しました。
この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので、天保9年(1838年)の6月に完成したものです。
明治7年(1874年)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の戦闘の激しさがしのばれます。
門の構造は、二重二階の櫓門に、一重二階の続櫓を組み合わせたものです。屋根は本瓦葺、入母屋造りで、大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれ、鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています。
佐賀市教育委員会(現地案内板より)
続櫓
アームストロング砲
アームストロング砲は、幕末に佐賀藩が保有していた後装施条砲です。イギリスのアームストロング社で製造され、佐賀藩は長崎にいた商人グラバーらを仲介として輸入しました。戊辰戦争では上野や奥羽の戦いで用いられ、「佐賀の大砲」として威力を示しました。(現地説明板より)
アームストロング砲
銃弾痕
佐賀の役(佐賀戦争)の際に打ち込まれた銃弾の痕です。戦争の凄まじさを物語っています。
銃弾跡