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史跡 千辛万苦之場

別府市中央公民館の駐車場の一角に、昭和57年12月18日移転復元された土蔵造り木造二階建の古風な建物があります。慶応元年(1865年)に、後に伊藤内閣の外相として活躍する井上馨が刺客の手から逃れ、身を隠した旅籠「若彦」の離れです。

千辛万苦之場1

所在地:大分県別府市上田の湯6-37

千辛万苦之場2

若彦(若松屋)は、元々は現在の銀座通り流川にありました。この建物は昭和57年12月18日移転復元したものです。
1階は八畳一間で入口にある細い階段を上った二階には六畳一間で、各階ともに片方に掾が設けられています。二階には当時を偲ぶ写真も飾られていて、後日同所を訪れた井上馨が当時を懐かしみ書いた「千辛万苦之場」の書が飾られています。

千辛万苦之場3

 元治元年(1864年)9月徳川瀑布は、長州征伐のいくさをおこした。
 そのとき、長州の藩論は二つに分れ井上馨は、温和な解決を主張した。
 そのため、御前会議の帰りみち山口城下袖解橋(そでとげばし)をすぎ一本松にさしかかったとき反対派におそわれた。しかし危くも一命をとりとめた。
 翌慶応元年(1865年)馨は別府にのがれ、旅館若彦(のちの若松屋)に身をかくした。若彦の主人彦七は事情を察し、手厚い保護を加えたためしばらくして全快した。
 かれは、その後政界に身を投じ、47年後の明治44年(1911年)5月末別府市の若松屋旧屋を訪ね、謝恩の意をこめて「千辛万苦之場」と扁額を書き、若松屋(松尾家)に贈った。
 この建物は昭和57年12月18日移転復元されたものである。
昭和43年1月29日指定 (現地案内板より)

千辛万苦之場5

井上馨は、若き日の井上聞多(井上馨)を手厚く保護した、若松屋彦七と地元の侠客灘亀(なだかめ)の義侠心と、苦難の時に世話になった若松屋・松尾家の人達に感謝し、長い間そのことを忘れず、明治44年に再訪し恩返しをしました。

千辛万苦之場6

千辛万苦之場4


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