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青の洞門

青の洞門は、競秀峰の裾に位置し、当時難所だった道を安全に通ることができるようにと禅海和尚がノミで掘り続けて造った手彫りのトンネルです。

青の洞門1

所在地:大分県中津市

青の洞門2

諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚は、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすとの話を聞いて、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと決意し、単身難事業に着手した。
その後、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って「ノミと槌だけで30年かけて掘り抜いた」といわれている。
現在の洞門は、当時からは大きく変化しており、明治40年にはほぼ現在の洞門に近い形状で大改修が行われ、現在では手彫りの洞門の一部を残すのみである。(現地案内板より)

青の洞門4

手彫りのトンネルです。

ノミの跡が残っています。

青の洞門3

明かり窓

この窓が最初にあけたあかり窓です。

青の洞門5

青の洞門6

ノミの跡が残っています。

青の洞門7

青の洞門8

禅海和尚頌徳碑

江戸時代後期の享保20年(1735年)越後の旅僧禅海がこの地に来り、人馬交通の難渋を救うためにこの洞門開削の大悲願を起こし独力でこれに着手し不撓不屈の努力により、営々30年を費やし、この鎖戸の岩山をくり抜いたものです。
洞門はその後2回の改修によって当初の姿は変わったが、この入口に向かって右側川沿いの旧洞門の明かりとりの窓、掘り違いの地点にものみの跡がみられ、当時の感激を物語っております。 中津市(現地案内板より)

青の洞門9

禅海和尚の像

禅海和尚と青の洞門
 越後の人禅海和尚は、仏道修行のため回国行者となって諸国をめぐり、享保の頃この地にきた。
 たまたま、山国川沿いの岸壁にかかる鎖渡の難道で、踏みはずして墜死する惨事を目撃、仏道修行者として、この危難をとりのぞき、衆生救済の門を開かんものと大誓願を発し大岩壁にむかって鑿と槌をふるいはじめる。
 悲願30年、岩をも徹す禅海和尚の不動心は、ついに342メートルにおよぶ墜道を貫通させた。
 禅海和尚と青の洞門―競秀峰下にその偉業と芳名を千載に畄むると共に、万人をして禅海和尚の心をもって世に処せんと、その心気を奮い立たせる永遠の師表である。
平成2年8月15日 本耶馬渓町(現地碑文より)

青の洞門11

菊池寛肖像

青の洞門と禅海和尚は、大正8年(1919年)1月に発表された菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」で一躍有名になりました。

青の洞門10

寛延3年(1750年)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てています。日本初の有料道路とも言われています。


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