廣瀬淡窓旧宅南家
紹介文
所在地:大分県日田市豆田町
廣瀬淡窓旧宅南家の庭園です。
廣瀬家6号蔵
文久3年(1863年)建築で、土蔵内部が2区画に分れていて、2階も2区画に分れていましたが、現在は往来できるようになっています。土戸をもつ点に特徴があります。
廣瀬淡窓旧宅南家
廣瀬淡窓は、魚町通りから南側の用水路までの廣瀬家敷地を南家と呼んでいました。南家敷地は、宝暦8年(1758年)に三代当主の久兵衛が間口三間の土地を購入し、家業の発展とともに土地を拡大して、弘化年間(1844年~1847年)に現在の広さになりました。
南家には、通りに面して南主屋と六号蔵、敷地奥に隠宅と七号蔵が現存し、いずれの建物も、淡窓の弟の廣瀬久兵衛(六代当主)と源兵衛(七代当主)によって幕末期に建築されたものです。この南家建物は、父母や親族などの生活の場として利用されてきました。
隠宅は久兵衛が隠居屋として建てたもので、茶空間を完備し、豊後岡藩や筑前秋月藩の宗匠を招いて茶稽古が催されていました。隠宅南には、用水路を取り込んだ「流れの庭」を築き、長崎の南画家木下逸雲が庭園をモチーフに筆を走らせるなど、当時のままの姿で残る石橋が文化的な暮らしを偲ばせます。
淡窓著述の「淡窓日記」には、淡窓が南家を訪れた記述が多く見られ、隠宅に久兵衛を訪ねた際には、花見も行っています。淡窓が隠宅を訪れる際には、南主屋と六号蔵の間の路地を通っていたと思われ、叩き土間が今でも名残をとどめています。
また、淡窓は、文化2年(1805年)に長福寺学寮から戻って、南家土蔵(隠居蔵)で講義を行っています。この南家土蔵は七号蔵のすぐ脇にあったとされており、私塾咸宜園を開塾し発展させ、多くの門下生を輩出した淡窓教育の原点ともいえる場所です。
日田市教育委員会(現地案内板より)
沈丁花の花が咲いていました。甘く、優しい、いい香りでした。
廣瀬淡窓隠宅庭園
石造の太鼓橋が架かっています。
隠宅庭園
嘉永7年(1854年)庭築(久兵衛日記より)
庭園の特徴
水路の幅を広げて水の流れに変化をつけた「流れの庭」で、築庭当時の二つの石橋が残り、隠宅から望む開放感あふれる造りとしている点に特徴がある。廣瀬資料館には築庭当時の「隠宅花庭図」が残っており、マキ・カシ・ヒノキ・モミヂ・ウメ・ツゲ・オモト・モッコク・ツツジ・サクラなどが植栽されていたことがわかる。南画家の木下逸雲が庭園をモチーフに絵画を描いた記録が残っている。(廣瀬淡窓旧宅資料より)