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瀧廉太郎記念館

荒城の月を作曲した音楽家、瀧廉太郎の記念館です。手紙や写真や直筆の譜面などを展示しています。

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所在地:大分県竹田市竹田2120-1
開館時間:9:00~17:00
定休日:12/29~1/3
瀧廉太郎の生涯を紹介した15分間のビデオを上映しています。

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瀧吉弘(廉太郎の父)の表札です。右の写真は、瀧廉太郎記念館の門です。
この家は、滝廉太郎が12歳から14歳まで暮らした屋敷です。

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 当時の竹田は、岡藩の城下町、九州の小京都として、しっとりとした風情をたたえた、文化の香りの高い町でした。「遊芸の町」とも言われ、茶道、華道はもちろん、多くの人が謡曲、仕舞、三味線、琴などをたしなんでいました。
廉太郎は竹田高等小学校に通いながら、城下町のさまざまな響きや風景、地域の素晴らしい自然に囲まれ、この竹田の町で音楽の道に進むことを決心したのです。
 家の前の溝川や裏山の竹薮の響きを聞き、芝居や謡曲の好きだった父親、ヴァイオリンをたしなんだ姉たちのいる家族と暮らしたこの家は、廉太郎の感受性を豊かに育て、後に数々の素晴らしい音楽をつくりだす源の一つとなりました。
 この旧宅では、廉太郎が聞いていたと思われる、当時の家や庭の音、竹田の町の響きを復元するいくつかの工夫をしています。(現地案内板より)

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門から玄関へと続く敷石、風情があります。

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廉太郎旧宅

 瀧廉太郎が十二歳から十四歳までの二年半、多感な少年時代を過ごしたのがこの家です。
 瀧家は代々日出藩(ひじはん:現在の大分県速見郡日出町)の家老をつとめた名門で、廉太郎の父-吉弘は同藩の家老をつとめた後、上京し、大久保利通・伊藤博文の右腕として中央で活躍した人でした。
 明治二十四年、父-吉弘は大分県直入郡長に任命され、十二月の半ば、廉太郎は家族とともに竹田に移りました。その折、瀧一家に官舎としてあてがわれたのがこの家でした。この家はもともと岡藩主中川家の家臣をつとめた岩瀬家の由緒ある屋敷で、当時は三百坪近い大きな侍屋敷でした。(現地案内板より)

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瀧廉太郎と竹田

 瀧廉太郎は、明治十二年八月二十四日、東京芝区南佐久間町二丁目十八番地で生まれました。父は官庁に勤めていましたので、 父の転任といっしょに横浜、富山、東京、大分、竹田と転居しました。 竹田には、明治二十五年一月、直入郡高等小学校第二学年に転入し、五月には、第三学年に進級しています。当時、瀧廉太郎は十二歳でした。彼の家は、父が直入郡の郡長でしたので、武家屋敷が郡長官舎となり、広い敷地に重厚な門と土塀がめぐらされていました。廉太郎の部屋は、奥の六畳の間で、ここから約1キロメートルの小学校に通学しています。
 竹田時代は、廉太郎にとって多感な少年期でした。学校の裏にある岡城阯の探検や音楽など、良く学び、良く遊び、二十三歳十ヶ月の障害の中で、一番好きな町となりました。 このことは、後年「脚気(かっけ)」という病気で苦しんだ時、先生や親戚、友人が居る竹田で療養していることからもわかります。
 高等科時代の廉太郎は、音楽や絵が得意で、同窓の朝倉文夫の碑文にもあるように、 許されて学校の式場にあるオルガンを弾いたのも彼でしたし、当時の絵からも非凡な才能を感じさせます。
 また、廉太郎が十八歳の頃の作品で『古城』という詩があります。 この詩は岡城阯を詠んだもので、「外堀は田にすきかへされ 内堀は年毎にあせて 二百年の名残やなに 水草いる辺に槁杭朽ちて 野菊咲くかげ石ずえ残る 一の木戸か 二の木戸か あはあはれ」 と詩情豊かに岡城を表現しています。
 この休憩所の下は、昔は「溝川のおさん」が棲んでいるといわれました。廉太郎の妹、安部トミさんの話にも、いたずらをすると「おさんが出るよ」と、母から叱られ、兄と共に、ほんとうにこわかったと話しています。
 また、『荒城の月』は、兄が竹田の岡城を想い作曲したとも話されており、竹田は、瀧廉太郎の心のふるさとであり、少年期の楽しい思い出がたくさんある、いこいの町であったようです。
竹田市教育委員会(現地碑文より)

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