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切支丹洞窟礼拝堂

戦国時代末期に造られた切支丹洞窟礼拝堂です。

キリシタン礼拝堂2

所在地:大分県竹田市殿町
凝灰岩をくり貫いた洞窟
幅:3m 高さ:3.5m 奥行:3m
正面奥の壁を掘り込み、祭壇として使用していたと考察されています。
上段3つと下段2つの合計5つの窓と、屋根部分がくり抜かれています。

キリシタン礼拝堂1

殿町の武家屋敷の角を曲がり奥へと進みます。まだ少し石垣の道が続きます。石垣の間から様々な草花が生えています さらに進んだところに隠れキリシタン洞窟礼拝堂があります。小さな階段があり、そこを登ると、隠れキリシタン洞窟礼拝堂やキリシタン神父の住居跡があります。

キリシタン礼拝堂3

キリシタン洞窟礼拝堂

県指定史跡 キリシタン洞窟礼拝堂
所在地:竹田市大字竹田2044
指定:昭和三十三年三月二十五日
 凝灰岩(ぎょうかいがん)をくりぬいたこの洞窟は、一四世紀頃のローマの洞窟礼拝堂によくにている。こうした点で洞窟礼拝堂としては全国でも例を見ない。
 内部は、幅三メートル、奥行三メートル、高さ三・五メートルで、正面奥の壁をほりこみ祭壇として使用していたと考えられる。
この洞窟に関係すると思われる資料「日本切支丹宗門史」に「宣教師フランシスコ・ブルドリノが伝道に従事した地方(竹田・直入地方) 即ちシンガ(志賀?)の殿の一人が、神父の居場所を知りながら、眼を閉じていた」とある。
 豊臣秀吉はキリスト教の禁止を行なった。江戸幕府もこの政策を引き継いで強化し、島原の乱(1637年~1638年)から、全国的にキリシタンの大弾圧が行なわれた。岡藩においても例外ではなく、元和五年(1619年)十月に宗門改めを始め、翌年から厳しいキリシタン狩りを行い、多くのキリスト教信者がとらえられた。 このような厳しい時代を経て、この洞窟礼拝堂が伝え残されたことは貴重である。
平成十年三月 竹田市教育委員会(現地案内板より)

キリシタン礼拝堂4

凝灰岩をくり抜いて造った洞窟。こんな薄暗いところで礼拝したり、神父さんが生活していたとは…。当時のキリスト教信仰がいかに困難であったかを物語っているようです。

キリシタン礼拝堂5

守り猫の様に、ずっとこのにゃんこさんがいました。


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