岡城の滝廉太郎像
荒城の月を作曲した瀧廉太郎の銅像です。朝倉文夫の作です。
所在地:大分県竹田市大字岡 岡城西の丸
不朽の名作「荒城の月」を作曲し、23歳10ヶ月の若さで天折した瀧廉太郎。少年期を山紫水明の郷土で修学。岡城は絶好の遊び場であり、四季に移ろう自然の中から音楽の天分を育みました。岡城跡の銅像は、同窓の彫塑家朝倉文夫の作です。
瀧廉太郎が腰かけている台座にも細かい彫刻が施されています。
何かのCMにありますが、瀧廉太郎が病で苦しんだ時代に、現代のような発達した医療技術あれば、瀧廉太郎も助かったでしょう。瀧廉太郎が長生きできていたら、どれだけの素晴らしい作品を残したことでしょう。しかし、短い人生の中にこれだけ素晴らしい楽曲を残し、それらの曲は今も人々に愛され、歌い継がれています。これからもずっとずっと歌い継がれていくことでしょう。
色々な角度で瀧廉太郎像を撮りましたが、後姿は哀愁を感じます。
岡城の断崖絶壁の石垣は苔むして、時の流れを感じます。
明治24年(1891年)12月に、父(瀧吉弘)の転任のため、一家全員で竹田の官舎へ移り、明治27年(1894年)5月に上京するまでの間竹田に住んでいました。
明治30年(1897年)8月には、脚気を患い、竹田で静養していました。 その年の10月に「散歩」という曲を発表しています。
明治31年(1898年)7月9日に、東京音楽学校を主席で卒業し、同年9月1日に、研究科に進学しました。 明治32年(1899年)には、音楽学校嘱託となり、同年には、「四季の瀧」を作曲しています。(作詞は東くめ)
明治33年(1900年)6月12日に、ピアノ及び作曲研究のため、満3ヵ年ドイツへの留学を命ぜられます。
明治34年(1901年)3月に出版された中学唱歌には、 瀧廉太郎作曲の荒城の月、箱根八里、豊太閤が掲載されています。同年4月6日、ドイツ留学のため横浜港出航。
明治35年(1902年)10月17日に東京帰着。同年10月30日に「別れの歌」作曲。同年11月大分町にて病気療養。同年12月29日に「荒磯」作曲。
明治36年(1903年)2月14日「憾(うらみ)」作曲。明治36年(1903年)6月29日、大分市府内町にて23歳10ヶ月にて病死。(大分県竹田市 瀧廉太郎 年譜より)