日本丸
館内には日本丸や薬の資料や古いものが沢山展示されています。展望楼からは、豆田の町並みや山々などもよく見えます。日本丸は明治時代に、高価な材料を使って朱を掛けた小さな丸薬ですが、当時は万能薬として大変人気があったそうです。
所在地:大分県日田市豆田町4-15
開館時間:10:00~16:00
開館期間:6/1~8/31・12/1~翌年2/14
岩尾薬局は江戸時代から続く薬局です。昭和40年代までは、薬の製造・販売を行っていました。日本丸(にほんがん)は、岩尾薬局で製造販売されていました万能薬です。
岩尾薬舗
創業安政2年(1855年)
●蔵(倉)展示室
一階厨(くりや)(台所)安政時代建築
二階 くすり(戦前戦後)ポスター・道具・ふしぎによく効く日本丸(にほんがん)展示(家伝薬)・明治13年増築
三階 倉座敷(商談の部屋)祖先の生活と文化 大正15年増築
●母屋(おもや)(主屋)二階
春の特別展 おひなまつり 端午の節句・秋の特別展(結婚50年)金婚式(昭和13年)再現
●中三階(大正15年建築)
●展望楼(大正15年建築)眺望(日田盆地)(現地案内板より)
日本丸の歴史
岩尾家14代半蔵(天保3年出生、明治36年没)は安政2年(1855年)伏見屋岩尾古雲堂として薬種屋を開業。
明治20年(1887年)15代昭太郎(明治3年出生、昭和27年没)が特効薬○王日本丸の製造に成功。丸薬に朱をかけ赤丸の日本丸は当時としては目新しく話題となった。また昭太郎と16代重政(明治19年出生、昭和39年没)
2人は独特な宣伝とひたむきな努力により販路を国内外に広め、東京・大阪・名古屋・京城・と次々に支店を開設しました。
日本丸は漢方薬処方の万能薬として、多くの人々に服用され続け、明治、大正、昭和の中期まで大変ご愛顧を頂きました。その90余年の歴史も時代の波戸共に昭和40年代に製造を中止致しました。(原料入手困難の為)
当時ご愛顧戴きました皆様方に感謝とお礼を申し上げます。平成5年3月 17代館主 岩尾 道夫(現地案内板より)
日本丸製造工程
1-原料を刻む→2-する→3-篩う(ふるう)→4-混合→5-こねる→6-丸める→7-乾燥→8-箔付け(色付け)(衣掛け)→9-乾燥→10-瓶詰→11-包装(現地説明板より)
日本丸の原料
1-せんそ・2-牛黄(ごおう)・3-れい羊角(れいようかく)・4-麝香(じゃこう)・5-真珠(しんじゅ)・6-熊の胆(くまのい)・7-人参(にんじん)・他薬草 動植数種配合(現地案内板より)
日本丸について
●日本丸1500粒中の成分分量:ジャコウ:0.74g・ゴオウ:1.85g・センソ:0.62g・サイカク:1.85g・ニンジン:1.87g・ボレイ:1.12g・硫酸ナトリウム:0.37g・熊の胆:0.75g・唐木香:1.87g
●主治効能:心臓病・腹痛・感冒・吐瀉・悪心
●用法:大人は三粒より六粒まで一日二回・小児は一粒より三粒まで一日二回
白湯にて服す病の軽量と年を按じて加減す。(現地案内板より)
材料の入手困難のために製造中止したのが大変残念です。
ふしぎによくきく日本丸
動物六種綜合ホルモン特効薬剤、船は日本丸(にほんまる)薬は日本丸(にほんがん)
ユニークな広告
「船は日本丸(にほんまる) くすりは日本丸(にほんがん)」
「色々のんだがやっぱり日本丸 のんだ!ねた!おきた!なおった日本丸」
「ふしぎに よくきく 日本丸」
「日本人にして日本丸の偉効を知らぬ人あれば遺憾なり」
「心臓・・・・熱病・・・・精力減退に・・・・」
「健康の常備薬」などなど、なかなかのコピーで思わず笑ってしまいました。
岩尾家住宅
岩尾家は、安政2年(1855年)に薬種屋「伏見屋岩尾古雲堂」をこの地で開業し、明治20年に特効薬「日本丸」を開発販売し一時は海外まで販路を拡大した。
主屋は大正後期に建てられた2階建、塗籠の町家で、昭和初期に3階の望楼が増築された。化粧軒の銅板葺屋根に仕上げた日本丸隆盛期の増築である。
正面1階右端には唐破風の屋根を飾り、2階には銘木を多用した大広間を造る。隣接する明治13年建築の土蔵と、背後に接続する明治31年上棟の離れとともに、伝統的町並みの顔として、また豆田の天守閣として親しまれている。(日田市文化財マップより)
展望楼
大正15年建築
木造四層三階建ての日本丸館
現在も残っている日本丸