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史跡咸宜園跡

咸宜園は、文化14年(1817年)に広瀬淡窓が開いた私塾の跡です。昭和7年7月23日に国指定史跡になりました。

咸宜園1

所在地:大分県日田市淡窓2-2-13
開館時間:10:00~16:00
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日及び祝前日の場合は翌日・12/29~1/3)

咸宜園2

建物内では、広瀬淡窓の教育方針や思想や歴史について説明もしてくださいます。その中で色々なことを教えて頂いたのですが、咸宜園の咸宜(かんぎ)という言葉は「ことごとくよろし」(すべてのことがよろしい)という意味があり、身分に関係なく誰でも入門でき、本人の努力次第で昇級できるという平等の精神が込められているそうです。
咸宜園では身分に関わらず学ぶ機会を与え、それぞれの個性を重んじた教育をしたそうです。素晴らしいです。

咸宜園3

広瀬淡窓は、士農工商の身分制度があった時代に身分に関係なく広く門戸を開き、高野長英や大村益次郎など、淡窓が没するまでの50年間に全国66カ国から集まった約三千人の門弟を教育したそうです。

咸宜園4

広瀬淡窓

広瀬淡窓(ひろせたんそう)は、江戸時代後期の儒学者です。
天明2年(1782年)、大分県日田市豆田の掛屋博多屋の長男として生まれました。しかし病弱なため、家業の掛屋は三男の久兵衛がいだそうです。
淡窓は幼い頃から学問や詩作に秀でていたそうです。「敬天」という言葉は、「人、天を敬うことを知れば、即ち、善は勉めずして成り、悪は禁ぜずして去る。」という意味を込めた淡窓の言葉だそうです。

咸宜園5

主な門下生

大村益次郎、高野長英、上野彦馬、中島子玉、平野五岳、恒遠醒窓、長三洲、清浦奎吾

咸宜園6

二階や庭も観覧することができます。

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咸宜園15

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遠思楼

広瀬淡窓の書斎

咸宜園14

 史跡咸宜園跡の一角に建つこの二階建家は、嘉永2年(1849年)廣瀬淡窓が68歳のときに書斎として建てられ、遠思楼と名付けられた。
 淡窓はこの楼を好んで使い、階下は書庫とし、眺望のよい階上では読書や思索のほか、門弟や知人たちと詩会を催し、月や雪を愛でて小宴や談話を楽しんだりした。
 明治維新以降塾の衰退によって、明治7年(1874年)には中城川畔に移され、、多少の改修を加え民家として使われていた時期もある。
 昭和29年(1954年)には、淡窓忌百年祭の記念事業として淡窓の居宅である「秋風庵」の裏に還された。
 老朽化に伴ない、文化庁の補助を受けて保存修理工事が行われ、平成13年、往時の場所に素朴なたたずまいが復原された。
 淡窓の漢詩集「遠思楼詩鈔」は、この建物に由来し、この楼の名を世に知らしめている。
日田市教育委員会(現地案内板より)

咸宜園9

咸宜園20

二階の丸い窓がモダンでおしゃれです。

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秋風庵

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秋風庵は、淡窓の伯父であり俳人の広瀬月化が建てた居宅です。

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秋風庵は淡窓の伯父で俳人として有名な広瀬月化が天明元年(1781年)別家して建てた居宅で、このとき雪中蓼太が芭蕉翁の「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」という句と庵記を贈ってくれた。これにより秋風庵と名づけられた。秋風庵は老朽化したので平成6年から解体修理を行ない、江戸時代末期の姿に復元された。(現地案内板より)

咸宜園11

咸宜園は幕末の儒学者廣瀬淡窓(1782年~1856年)が開いた私塾で、文化14年(1817年)に、それまで開塾していた桂林園を伯父月化が隠居していた秋風庵の西隣に移したものである。
淡窓は構内に講堂・東塾・西塾などの学舎を建て、明治30年(1897年)の閉塾までに5,000人を超える門弟が全国66ヶ国から来塾し学んだことから、江戸時代最大の私塾といわれる。
現在は市街地にありながら、秋風庵・遠思楼・井戸などが当時の面影をとどめ、北に広がる豆田町並みへの入口ともなっている。
隣地には咸宜園教育研究センターがあり、廣瀬淡窓の研究や咸宜園で行われた教育に関する展示などを見学することができる。(日田市文化財マップより)

咸宜園19

庭には井戸がありました。

咸宜園10

秋明菊

庭にピンクの秋明菊が咲いていました。

咸宜園13

金木犀

庭には金木犀の優しい香りが漂っていました。

咸宜園12

巴瓦には三つ巴が描かれていました。


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