国木田独歩館
明治26年10月から明治27年6月までの間、国木田独歩と弟の収二が下宿していた坂本永年邸を修復し、公開しています。館内には作品や関連品が展示されています。
所在地:大分県佐伯市城下東町9番37号
開館時間:9:00~17:00
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
この建物は、幕末に建てられた旧坂本邸です。築150年以上建っているそうです。独歩が過ごした明治時代の佐伯を紹介する写真コーナー、作品に描かれた情景をイメージした映像展示、企画展示室があります。当時の居間を活かした休憩室も利用できます。
国木田独歩は、鶴谷学館の教師として佐伯に招かれ、明治26年10月から明治27年6月末までの10か月余りの間、この坂本邸に滞在していました。ここの家主であった坂本永年は、鶴谷学館の館長でした。公私ともに独歩の面倒をみてたそうです。
国木田独歩館の前庭
独歩が生活をしていた2階の窓からよくみえます。窓際の文机に向かい、何を思いながら筆を運んでいたのでしょうか。
旧坂本邸(国木田独歩館)1階
この縁側からは、裏庭の池がよくみえます。
国木田独歩館の裏庭の池
裏庭園は、城山の麓にあたる地形を活かし、立体的に構成されています。湧水を溜めた池があり、縁側からちょうど池が見えるので和みます。国木田独歩は、裏山にあたる城山の山上まで、散歩することが多かったそうです
2階6畳間
2階の6畳間は、国木田独歩が鶴谷顎間に赴任していた10ヶ月間下宿してた部屋になります。
3畳間は、同行していた弟・収二が過ごしました。3畳間には、当時の鶴谷顎間の現金出納帳等の帳簿を展示しています。
国木田独歩館2階
国木田独歩が下宿していたのは、この部屋です。坂本邸の母屋の2階です。天井は低いですが、窓からの眺めがいいです。右奥の窓のすぐそばにある小さな机は、独歩が愛用していた文机だそうです。
この建物は当初平屋造りだったのですが、こちらに移築した際、中二階として部屋を増築したため、1階の天井と2階の天井が低くなっています。
国木田独歩館(旧坂本邸)の白壁土蔵
国木田独歩資料室として利用されています土蔵の1階には、独歩の生い立ちや文学的な特徴を、資料とグラフィックで解説しています。佐伯との出会いやその後の足跡、書簡なども展示されています。
土蔵の2階には、独歩の作品を手にとって読書を楽しめるコーナーや、貴重な初版本の展示を行っています。
また、一人ずつ椅子に腰かけて閲覧することができる独歩デジタル文庫では、佐伯に関わる作品をわかりやすく説明し、画像や音声が飛び出す電子ブックがあります。独歩ファンにはたまらない空間です。
小鳥の釘隠し
引手金具
引手金具
国木田独歩館の裏庭にありました。短い期間しか佐伯に滞在していなかったにも関わらず、こうして佐伯の方々に愛され続ける独歩。佐伯の方を魅了して止まない独歩とはどのような方だったのでしょう。佐伯の自然を愛していた独歩は、何故短期間で佐伯を離れなければならなかったのでしょう。国木田独歩館に資料がありますので、是非各々の答えをみつけてください。
初代独歩碑
明治の文豪・国木田独歩を称えるこの「独歩碑」は、昭和11年6月に、佐伯独歩会によって城山西の丸の一角に建立されました。
その後、碑は壊れて碑文も読めなくなっていましたが、このたび、碑創建当時の「豊州新報」によって全文が判明し、さらに独歩ゆかりの旧坂本家邸内に、この碑を移設できたことは大変な喜びです。
独歩がこよなく愛した城山を背景にたたずむこの碑を象徴として、今後とも独歩文学を愛する心を佐伯の地に培い育ててゆきたいものです。
平成16年6月吉日 坂本家・佐伯独歩会
◆昭和11年6月25日付「豊州新報」(大分合同新聞社提供)より◆
國木田獨歩は明治26年23歳の時 鶴谷学館の教師とし佐伯に来り約1年を当地に過ごした、佐伯を題材とした彼の作品は処女作「源をぢ」をはじめ「鹿狩」「春の鳥」等があり当時の生活は「欺かざるの記」に委しい。
彼は佐伯の自然を愛し閑暇ある毎に四辺を跋渉、殊にこの城山は朝夕逍遥して瞑想するところであった。 昭和11年6月23日(碑文より)
階段を2階へ上ってきたところです。手摺や丸窓に趣があります。
国木田独歩館2階の右手(通り側)の6畳間を独歩が使い、左手(裏庭側)の3畳間を弟の収二が使っていたそうです。
国木田独歩の写真の幕
独歩資料館として利用されている土蔵の入り口に掛かっています。国木田独歩は、明治41年(1908年)6月23日に満36歳で亡くなりました。
佐伯の鶴谷学館に、英語と数学の教師として赴任していたのが、1893年10月~1894年6月末の9ヶ月間ですので、この写真はその頃のものでしょうか。