臼杵城跡
大友宗麟が丹生島(現在は陸続きになっています)に築いた城跡です。平成13年に大門櫓が復元されました。春は桜の名所として桜まつりが盛大に催されます。
所在地:大分県臼杵市
臼杵城は、別名丹生島城、巨亀城、金亀城、亀城とも呼ばれていました。連郭式平山城です。
大分県指定史跡 臼杵城跡
臼杵城は弘治2年(1556年)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生島は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。
大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。
その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓、畳櫓以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。
現在は臼杵の歴史のシンボルとして、皆さんに親しまれています。 臼杵市教育委員会(現地案内板より)
畳櫓
畳櫓(たたみやぐら)は、桁行4間(7.92m)、梁行3アイア(4.44m)の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓です。この櫓は正保年間(1644年~1648年)頃に建てられたのが始まりのようです。宝暦13年(1763年)の大火で焼失しましたが、その再建は明和年間(1764年~1772年)頃ではないかと推定されます。
「畳櫓」という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来とする説や、中に畳が敷かれていたからという説等がありますが、はっきりした由来は不明です。(現地案内板より)
復元された二の丸大門櫓
原山時鐘
この時報楼(じほうろう)の鐘は「原山時鐘」(はらやまときかね)といいます。
鐘に刻まれた銘によると、元禄13年(1700年)に鋳造されたとあります。その後、寛政2年(1790年)に改鋳され、江戸末期までは原山時鐘堂(二王座)で時を告げていたものと記録に残っています。
明和6年(1873年)頃の臼杵城廃城後、この原山時鐘が臼杵城跡畳櫓横へ移され、その後も昭和末期まで、鐘の音を聞くことができました。
しかし、いつの頃からか鐘の撞き手がなくなり鐘の音は途絶えたままとなっていました。平成20年(2008年)臼杵城跡西ノ丸鐙坂の土塀復元に際し、この鐘は畳櫓横から約140年ぶりに、ここ時鐘櫓跡に置かれたが、鐘の音が復活することはありませんでした。
そこで、平成22年(2010年)6月、臼杵ロータリークラブは、創立50周年記念事業として、鐘の音を復活するため、時報楼の整備を行いました。
遠い元禄の昔から、うすき市民の思い出に刻まれつづけた鐘の音を感じていただければ幸いです。(記念碑碑文より)
時鐘
鐙坂
鐙坂(あぶみざか)