中津城
中津城は日本三大水城(中津城・高松城・今治城)の一つです。黒田孝高が豊臣秀吉の命令により九州を平定し、中津16万石を拝領して、天正16年(1588年)、中津川河口周防灘に臨む中津城を築きました。現在の中津城天守閣は昭和39年に、奥平家により市民の協力の元建設されました。(模擬天守閣:地下1階5層5階、高さ23m、床面積延べ795平方メートル)
中津城 天守閣
所在地:大分県中津市二ノ丁本丸
開館時間:9:00~17:00 休館日:年中無休
城郭面積:23.287坪、地形が北より南方に扇状をなしているので、中津城の別名を扇城と云います。本丸石垣、内濠は当時のままで水門より海水が入って潮の干潮で濠の水が増減している水城です。
天守台石垣は黒田孝高の築城で野面積みです。慶長15年細川忠興が増築の石積みは打ち込みはぎ積みで、東西42m、南北40m、高さ8mです。
天守閣
1964年に建設した模擬天守閣です。石垣上部の色が違う部分が昭和の継ぎ足した部分です。内部は奥平家の宝物を中心とした展示室になっています。江戸時代は、ここに二層の櫓が建っていました。
中津城は福岡県と県境を形成する山国川の支流中津川の河口沿いに位置します。北は海、西は川に面した要衝の地であり、堀の水かさは潮の干満で上下します。東は二重、南は三重の堀を有し、外堀には「おかこい山」と呼ばれる土塁をめぐらせていました。
1587(天正15)年、豊臣秀吉は九州をその支配下にいれ、豊前下毛郡など六郡の領主として、自らの軍奉行であった黒田孝高(如水)を入国させました。黒田氏ははじめ、大塚山の砦を修築し根拠地としていましたが、1588年、中津江太郎の居城であった丸山城を修補し中津城の築城にとりかかりました。「黒田如水縄張図」と伝えられる絵図には、本丸、二の丸、三の丸とともに「京町」「博多町」「町」「侍屋敷町家」「寺モアリ」と記され
ています。
1600(慶長5)年、黒田氏にかわり入城した細川忠興は、中津城に忠利をいれました。忠利は1603年から1620年まで中津城の増改築を行いました。1615(元和元)年「一国一城令」により、豊前国では小倉城以外の城は破却の危機に瀕しましたが、忠興が老中土井利勝らへ働きかけたことにより、例外的に中津城は残ることができたのです。1620年、忠興は隠居して三斎と号し、中津城に入ります。三斎の隠居城として修復、完成をみた中津城には、本丸、二の丸、三の丸と八門、二十二の櫓が設けられ現在の形がほぼ整いました。
1632(寛永9)年、細川氏の熊本転封によって、中津には譜代大名小笠原長次が入部し、城下町の整備を行いました。1717(享保2)年、譜代大名奥平昌成が中津に入り、以後1871(明治4)年の廃城まで、中津藩主の居城として存続しました。(中津城パンフレットより)
三斎池
細川三斎(忠興)は、三口の井堰から上水道を城内に引き込んだ。防火用水としても使用された。
池は三斎にちなんで三斎池という。上水道は「お水道」とよばれ、城下町内を発掘すると、お水道の施設が発見される。(中津城パンフレットより)
天守閣からの眺め
黒田官兵衛に扮装したボランティアガイドの方
中津城と奥平神社
天守閣
奥平家家紋・奥平団扇
扉に奥平団扇
軒瓦に奥平団扇
瓦の模様
鬼瓦と軒瓦に奥平団扇
展示 奥平団扇
展示 道具
展示 鬼瓦に奥平団扇
展示 鬼瓦
展示 奥平団扇