亀甲城跡公園
知覧武家屋敷群の森重堅邸庭園の裏手に、亀甲城がありました。
所在地:鹿児島県南九州市知覧
知覧武家屋敷群の森重堅邸庭園の裏手に、亀甲城がありました。亀甲城は、地形が巻貝の蜷(ニナ))に似て、螺旋状になっていることから、蜷尻城とも呼ばれていました。尾根を遮断する空堀や土塁、井戸跡など中世城郭の名残を留めています。知覧城の出城とされ、重要伝統的建造物群保存地区内にあります。
亀甲城跡公園
ここは、中世の亀甲城(別名 蜷尻城・になじりじょう)の跡です。螺旋状の道が頂上に達し、井戸や曲輪、堀切、土塁などが残されています。北面に麓川が流れ、矢櫃橋(二重眼鏡橋)が架かっています。「矢の櫃」とか「矢引く」が語源と言われています。
この城は知覧状の出城で、鹿児島市ほうめんからの外敵侵入に備えた前衛的城塁です。南面大地の通路を経て知覧城との連絡がなされていました。城の頂上に南北朝の忠臣知覧又四郎中世の碑が建っています。登城道の途中にはスダジイ、クス、ヤブツバキなどがあります。(現地案内板より)
京都から知覧へ来た未亡人の銀杏
所在地:鹿児島県南九州市知覧
江戸時代に京都から持って帰った銀杏の木と言われています。大正3年9月に大火で枯れ、この雌木だけになってしまいました。京都から来たこの銀杏、現在はかなり衰弱しているように見受けられました。樹木のお医者さんには見て頂いたのでしょうか。またこの銀杏が元気になりますように。
≪知覧のいちょうの由来≫
藩政時代参勤交代の帰途、京都に立ち寄った知覧領主の家臣らは、柳やかえでを郷里に移し植え、ふもとに京の香りを漂わせた。このいちょうも京からのもので、はじめは夫婦木であったが、溝を挟んでそびえていた雄木は、大正3年9月に大火で枯れ、この雌木だけとなった。知覧領主が奉納した豊玉姫神社の夫婦銀杏(めおといちょう)は、天にそびえて森厳の気をそそり、旧役場庁舎の巨木は町民に親しまれていた。
役場西隣のいちょうは、樹齢350年を数え、このいちょうもその頃のもので、根の回りは約7メートルである。家臣らは、このいちょうを仰ぎながら京の文化に思いを馳せ、庭園をつくり、和歌をたしなみ、カラクリに興ずるなど、感動の文化をつくった。明治100年(昭和43年)を記念し、知覧町は、いちょうを町木に定めた。
平成6年3月吉日 知覧町史談会(現地案内板より)