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折田兼至の胸像

明治15年熊本に九州進歩党を創立。鹿児島県会議員となり、同議長に就任。明治23年衆議院議員(当選4回)。鹿児島県農工銀行頭取も務めた政治家です。知覧では消防団創設、知覧区裁判所新設、木床県道(旧県道1号線)を開通させ、町全戸にみかんの苗木を贈与したりするなど貢献しました。

折田兼至1

所在地:鹿児島県南九州市知覧町
当初の銅像は、昭和4年(1929年)、村により安藤照製作の全身姿の銅像が建立されたものでした。しかし、昭和18年6月15日、銅像は溶かして戦争で使うために軍に出しました。しばらく銅像がなかった時期がありましたが、昭和38年11月に役場庁舎改築に併せて、当時の台座の上に再び銅像を建立することになりました。
戦争の為に溶かされたしまった、安藤照作の銅像をみてみたかったです。戦争の為に、日本中の様々な銅像やお寺の梵鐘などが溶かされてしまいました。大変もったいないですね。今残っていたら、すばらしい文化遺産ばかりだったと思います。

折田兼至2

折田兼至

折田兼至(おりたかねたか)は、安政5年(1858)年に下郡に生まれました。明治16年、25歳で県会議員に当選し、30歳で議長をつとめました。その2年後には第1回国会衆議院議員に当選します。明治30年(1897年)からは経済界に身をおき、県農工銀行頭取、県農会会長、南薩鉄道、鹿児島紡績会社などの重役を歴任し、民間知事と呼ばれました。
知覧では、消防団創設、知覧区裁判所新設、木床県道(旧県道1号線)を開通させ、町全戸にみかんの苗木を贈与したりするなど貢献しました。明治15年(1882年)、彼のよびかけにより、この場所に新聞や雑誌がおかれ、みんなが自由に閲覧できる鹿児島県で初めての新聞縦覧所が設置されました。
大正12年、65歳で亡くなりましたが、彼の偉業をたたえて、昭和4年(1929年)、村により安藤照製作の全身姿の銅像が建立されました。しかし、昭和18年6月15日、銅像は溶かして戦争で使うために軍に出したので、しばらく銅像がなかった時期がありました。やがて戦争は終わり、昭和38年11月に役場庁舎改築に併せて、当時の台座の上に再び銅像を建立することになりました。また、鹿児島市内照国神社前の県立博物館の敷地(照国神社の西側に私邸があった)にも、大正14年、有志により建てられた顕彰碑があります。(碑文より)

折田兼至3



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