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霧島 和気神社

霧島 和気神社(わけじんじゃ)は、足腰の神様、学問の神様、建築の神様、交通安全の神様として知られています。

和気神社1

所在地:鹿児島県霧島市牧園町宿窪田3986
和気清麻呂(わけのきよまろ)公を祀っています。
御祭神:和気清麻呂公命
御神号:護王大明神
御神徳:皇統護持・家内平安・厄除開運の守護神、土木建築・治山治水・産業繁栄の守護神、学問成就・人格形成・立身出世の守護神、身体健康・精神健全・病気平癒の守護神、交通安全・旅行安全・子授安産の守護神
例大祭:5月6日(この日は創立許可が下された日です。)
亥の子祭:11月第3日曜日

和気神社2

日本一の大絵馬

霧島の和気神社の境内にあります。
平成19年(2007年)の亥年に境内に奉納されました。和気清麻呂(和気清麿)公と猪が描かれた大きな絵馬です。壁かと思うほど大きくて吃驚しました。和気神社の例大祭は5月6日です。この他11月第3日曜日に亥の子祭が開かれます。

和気神社3

和気神社 由緒

奈良時代の末、神護景雲3年(769年)宇佐八幡神託事件、弓削道鏡による皇位窺覦(こういきゆ)の事件)に際し、和気清麻呂公は、勅使として、宇佐八幡宮の御神前に祈り戴いた真の御神託を復奏し道鏡の野望をくじかれたが、道鏡の怒りを買い大隅の国に流される。
嘉永6年(1853年)薩摩藩主島津斉彬公は日隅二州巡視の折霧島山下、犬飼滝付近に籠を駐め、手づから一樹の松を手植え、その後張った知紀(はったとものり)に命じて和気公の遺跡を精査せしめる。この結果現地中津川犬飼附近と確定された。
 昭和14年和気清麻呂公精忠顕彰会が発足し、県社和気神社創建の誓願を重ね、昭和17年5月6日創立許可下る。爾来この日を例祭日とする所以ある。昭和18年起工。21年3月御鎮座された。
霧島市牧園町宿窪田3986番地 和気神社(現地案内板より)

和気神社4

和気公と斉彬公

和気公が去ってから歳月が流れ、いつしか、中央では遺跡の所在が不明となっていました。そのため、薩摩藩主島津斉彬公は、京の都で近衛忠卿、三条実美卿より和気公謫居の遺跡調査を託され、帰国の後、八田知紀に調査させました。知紀は、大隅国桑原郡稲積(現鹿児島県牧園町下中津川)犬飼瀑布の辺りに、これを発見し、この復命を受けた斉彬公は、東目巡狩の折に1853年12月、この稲積の里を訪れました。
斉彬公伝には、「盛夏三伏の候ならば観瀑に適しているが、厳冬12月の観瀑は意味ありげな次第である。然り大いに意味があった。それは、この稲積の里が、忠烈無比なる和気清麻呂公の配所なることが分明となったから、斉彬公はその謫居の遺跡に臨みて、千歳の知己の誠忠を偲び、記念の松樹を手植えしたのである。」と記されています。
お手植え松は枯れてしまいましたが、昭和12年10月に、斉彬公の孫にあたる島津忠重侯爵が松にかえ楠を手植えされ、今も石段の両側にそびえています。(現地案内板より)

和気神社5

「篤姫」ゆかりの地 和気神社

坂本龍馬がこの地域を訪れたときには、まだ神社は祀られていなかった。 和気神社は嘉永6年島津斉彬公が、この地が和気清麻呂公流謫の地として調査確定されたことに始まる。そして終戦後の昭和21年に鎮座祭が行われ現在に至る。和気清麻呂公は神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件によって、 当時の権力者である道鏡によって大隅国(おおすみのくに)に配流されたが、後に中央官僚に復帰し活躍した人物である。
監修:かごしま探検の会 (現地案内板より)

和気神社6

和気清麻呂公略伝

和気公は奈良時代から平安時代に活躍した人物です。733年、備前国藤野郡(現岡山県和気町)に郡司の子として生まれ、長じて国政に参与しました。769年に、奸僧道鏡が偽りの神託を用い皇位を奪おうとした時、宇佐八幡宮に称徳天皇の勅使として詣で、神託を受けて復奏、その野望を阻み国家の危機を救いました。そのため、道鏡の恨みを受け、この地に追いやられました。(今もなお、和気公の伝説や、入浴したとされる和気の湯、良く腰掛けられたとされる腰掛石がこの地には遺されています。)
後に道鏡は失脚し、公は都へ帰り、長岡京平安京の遷都、治水工事や尼崎港を築くなど多くの土木事業をなし、さらに領地では郡民の負担軽減を図るなど善政を行い、799年に没しました。日本後紀では「人と偽り高直にして、非躬の節あり」「故郷顧念して窮民を憐れみ、忘るることをあたはず」と公を称えています。(現地案内板より)

和気神社7

和気公園の藤

和気神社の御祭神である和気清麻呂公の生誕の地、岡山県和気町の藤公園には全国から集められた百数十種類の藤の木が植えられています。平成12年3月、和気町よあり和気公の没後1200年を記念して、和気公流謫の地である前園町(旧)にその中から特に有名な23種類、100本の藤の苗木を寄贈していただきました。以来、皆様の善意により、大事に育てられ見事に成長し、毎年、4月中旬から5月上旬にかけて色鮮やかな美しい藤の花々が咲き誇ります。その間、当公園では「和気公園 藤まつり」が開催され多くの皆様に楽しんでいただいております。(現地案内板より)

和気神社10

日本銀行 拾円札と和気神社

明治32年の亥歳に発行された旧拾円紙幣には表面に清麻呂公の肖像、裏面には猪を刷り込んでいました。これにより拾円紙幣は「いのしし」と呼ばれて親しまれていました。このように、和気清麻呂公と猪は深い因縁があります。日本銀行拾円札には和気清麿と猪が描かれていたのですね。

和気神社11

宇佐八幡宮神託事件の際、和気清麻呂は、道鏡により、名前を「分部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に変えられ大隅の国に流されました。しかも、流される途中、道鏡の使者から命を狙われましが、突然現れた白い猪の群れに助けられ、大隅の国に流れ着きました。やがて天皇没後、道鏡は失脚し清麻呂も京に戻されました。
それにしても道鏡というのは、きよまろをきたなまろに改名させるセンスが情けないです。くだらないというか、愚かというか、なんだか短絡的すぎて笑っちゃいます。それにしてもお札にまで登場するとは、和気神社の猪さんはすごいですね。

和気神社13

霧島 和気神社の境内に、「坂本龍馬とお龍の日本最初の新婚旅行の地」の碑がありました。側には、「又あふと 思う心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな」という龍馬の歌が書かれていました。

和気神社12

龍馬お龍新婚旅行の地

坂本龍馬とお龍さんは、1866年(慶応2年)3月10日(新暦4月24日)に鹿児島に到着しました。
同年3月16日(新暦4月30日)には、船で浜之市港に寄港し、日当山温泉に宿泊しました。
同年3月17日(新暦5月1日)に塩浸温泉に到着し、この日から11泊して龍馬の手傷の治療湯治をしました。
同年3月28日(新暦5月12日)には、栄之尾温泉に滞在中の小松帯刀を見舞った後、霧島温泉に向かっています。
同年3月29日(新暦5月13日)には、高千穂峰の登山をし、高千穂峰をスケッチした後、華林寺に泊まっています。
同年3月30日(新暦5月14日)に、硫黄谷温泉に泊まり、同年4月1日(新暦5月16日)に、再び塩浸温泉に戻り7泊しています。
同年4月8日(新暦5月22日)に、再び日当山温泉に3泊しています。
同年4月11日(新暦5月23日)に、浜之市に戻り船待ちで1泊しています。
同年4月12日(新暦4月24日)に、乗船し鹿児島に戻り、小松帯刀の原良別邸に約50日間滞在しています。合計83日間の新婚旅行でした。

和気神社15

和気公と河伯祭

「忠烈和気公と遺跡」の石碑の脇に使えるように立つ石碑は、「義人稲積翁之碑」の石碑です。稲積翁は、この地の里民に伝わる伝説に登場します。伝説は、和気公が配流されてから始まります。不遇の公を支えた稲積翁は、公を崇敬し、身の貧苦を顧みず奉仕していました。稲積の里には、長雨が続くと河伯の怒りを鎮め、大洪水を防ぐ為、美しい娘を人身御供として中津川に鎮める河伯祭がありました。その年の秋も、長雨が続き河伯祭が祭事される事となりましたが、稲積翁は、この祭りが巫女や悪役人らによる陰謀である事に気付き、公に打ち明けました。
祭りが始まり、川のほとりの祭場で祝詞が奏せられ、ついに娘が川に沈められようとするその時、公と稲積翁が現れ、娘を救い悪役人を川に突き落としました。また、公は祭りの為に集められたお金で堤防を築き、貧しい人に農具を与えました。その為、里民は公を里の大恩人として深く尊敬しました。この伝説は、清廉で慈悲深い公の人柄を良く伝えるものです。(現地案内板より)

和気神社9

和気神社8

和気神社14



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