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尚古集成館

尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)は、集成館時代の鋳物場跡に建てられた建物です。

尚古集成館1

所在地:鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1 仙巌園内
尚古集成館は、館内は三つのテーマで構成されています。海によって育まれた島津家の歴史・文化を物語、近代化へのストーリーを展開。シアター上映などによりわかりやすく解説しています。

尚古集成館3

尚古集成館4

島津斉彬が興した集成館事業

嘉永4年(1851年)、薩摩藩主に就任した島津斉彬は、磯地区を中心に富国強兵・殖産興業政策を推進するため集成館事業を興しました。この事業は、造船・製鉄・紡績・ガラス・印刷・電信・医療・福祉など、様々な分野に及んでいました。斉彬は、軍備の近代化のみならず、産業を興し、社会基盤を整備しながら、日本を強く豊かにしたいと考えていたのです。
国指定重要文化財 集成館機械工場は、慶応元年(1865年)に竣工した集成館機械工場です。当時は「ストーンホーム」と呼ばれていました。
第1回 鹿児島市建築文化賞 1991年(現地案内板より)

尚古集成館2

日本初の工場群

国指定史跡 集成館跡
 仙巌園入口から尚古集成館・駐車場にかけての一帯は、幕末、薩摩藩主島津斉彬が築いた工場群「集成館(しゅうせいかん)」の跡地で、国の史跡文化財に指定されています。機械工場(現尚古集成館本館・重要文化財)や反射炉跡、工場の動力用水路跡が現存し、さらに地中には多くの遺構・遺物が眠っています。
 斉彬は、植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に強い危機感を抱いていました。日本が植民地にされないためには、日本を西欧諸国のような強く豊かな国に生まれ変わらせなければならいと考え、嘉永4年(1851年)薩摩藩主に就任すると、「集成館事業」という富国強兵殖産興業政策を推進しました。「集成館」はその中核となった工場群の総称で、鉄製砲を鋳造する反射炉、反射炉に鉄を供給する溶鉱炉、砲身を穿つ(うがつ)さん開台(さんかんだい)、蒸気機関の研究所、ガラス工場などがあり、最盛期には1,200名もの人が働いていました。
 安政5年(1858年)斉彬が急死すると、集成館は大幅に縮小され、文久3年(1863年)の薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃を受け焼失しました。しかし、斉彬の弟久光と久光の長男で家督を継承した忠義の手で繻子栄冠は復興されました。尚古集成館本館はこの時建てられた機会工場です。集成館事業により、薩摩藩は日本最高水準の技術力・工業力を持つにいたり、明治維新ではその威力が発揮されました。
 明治4年(1871年)、集成館は官有となりました。明治10年、私学校徒がここを襲撃して西南戦争が勃発、政府軍がすぐに奪還し、再奪還を図る西郷軍と攻防戦を繰り広げたため、多くの工場が焼失し荒廃しました。戦後、民間に払い下げられましたが振るわず、大正4年(1915年)廃止されてしまいました。大正8年、機械工場は改装され、大正12年島津家の歴史資料館「尚古集成館」がオープンしました。(現地案内板より)

尚古集成館6

尚古集成館7

明治天皇行幸所 集成館の碑

仙巌園内の尚古集成館の前にありました。明治5年(1872年)に、明治天皇が鹿児島に行幸された際、尚古集成館にお立ち寄りになられたことを記念する碑のようです。

尚古集成館別館15

尚古集成館8

紡績百年の碑

尚古集成館の庭にて
磯地区に建てられた、わが国の最初の鹿児島紡績所が、日本の近代紡績業の発展に果たした役割は、大変大きいです。尚古集成館の庭に、日本紡績協会によって、昭和42年(1967年)にこの「紡績百年の碑」がたてられました。
国指定重要文化財集成館機械工場

尚古集成館9

尚古集成館10

尚古集成館11

尚古集成館12

尚古集成館5

尚古集成館13

尚古集成館14



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