石橋記念公園
石橋記念公園内には、石橋記念館、西田橋、西田橋御門、高麗橋、玉江橋、岩永三五郎之像、抱真院建物遺構、祇園之洲砲台跡、西南の役官軍戦没者慰霊塔、薩英戦争記念碑などがあります。
所在地:鹿児島県鹿児島市浜町1-3
開園時間:通年開園
石橋記念公園は、平成12年(2000年)に開園しました。この公園が鹿児島の歴史を知る場の一つとして広く県民に親しまれ、石橋の末長い保存活用に役立つことを願って設立されました。石橋記念公園がある場所は、かつて薩摩藩の台場があり、薩英戦争では砲撃戦が繰り広げられた場所ですが、現在は公園として整備されています。
甲突川の五石橋(鹿児島五石橋)
【新上橋】架設年:弘化2年(1845年)4連アーチ・長さ:46.8m 幅:4.8m・建設費:2415両 平成5年(1993年)流失
【西田橋】架設年:弘化3年(1846年)4連アーチ・長さ:49.5m・幅:6.2m・高さ:5.5m・建設費:7127両・石の個数:約3100個
【西田橋御門】高さ:27.9m・幅:17.2m
【高麗橋】架設年:弘化4年(1847年)4連アーチ・長さ:54.9m・幅:5.4m・高さ:6.1m・建設費:2800両・石の個数:約3900個
【武之橋】架設年:嘉永1年(1848年)5連アーチ・長さ:71.0m・幅:5.5m・建設費:2400両・平成5年(1993年)流失
【玉江橋】架設年:嘉永2年(1849年)4連アーチ・長さ:50.7m・幅:4.0m・高さ:5.4m 建設費:1560両・石の個数:約2500個
鹿児島市の中心を流れる甲突川には、かつて上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の5つの大きなアーチ石橋が架かっていました。玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の五橋は、「甲突川の五石橋」として県民に親しまれてきました。この五石橋は、江戸時代末期に城下整備の一環として架けられたものです。しかし平成5年(1993年)8月6日の集中豪雨による洪水で、五石橋のうち武之橋と新上橋が流失してしまいました。残った3橋は、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、河川改修に合わせて移設して保存することになり、この石橋記念公園ができました。
素敵な石橋、四季折々の草花や木々、桜島や錦江湾もみえる素晴らしい景色を眺めながらの散策は楽しかったです。また、公園内にあります石橋記念館で石橋について様々なことを知ることができ、大変勉強になりました。
高麗橋
架設年:弘化4年(1847年)4連アーチ
長さ:54.9m 幅:5.4m 高さ:6.1m
建設費:2800両 石の個数:約3900個
五石橋のうち3番目に架けられた橋です。それまでの新上橋や西田橋と比較すると、上流側の水切石が垂直に近い勾配で立ち上がった独特の形状が特徴です。高麗橋の架橋の頃から岩永三五郎の指導のもとで地元の棟梁・山田竜介らが活躍しました。橋の両岸、加治屋町と高麗町からは明治維新の志士たちが多く輩出されました
甲突川五石橋
鹿児島市の忠臣を流れる甲突川の五石橋(武之橋、高麗橋、西田橋、新上橋、玉江橋)は、薩摩藩家老・調所広郷の財政改革(天保年間)の成功により、城下整備の一環として肥後(熊本県)から招かれた石工・岩永三五郎によって架橋されました。しかし平成5年8月6日の集中豪雨による洪水で武之橋と新上橋は流出しました。残った3橋は河川改修計画に合わせて、祇園之洲地区に一体的に移設復元し、末永く保存し活用することになりました。
高麗橋は五石橋の中でも2番目に長い、4連アーチの石橋でした。上流側の水切り石は垂直に近い勾配で立ち上がり橋面近くまで築かれていました。この大きな水切り石や河床に敷かれていた敷石で水の勢いが減らされ、橋が守られていました。
高麗橋は1847年の創建以来、明治42年には橋面勾配の改修、大正10年頃には水道管を架設、昭和20年~30年頃にかけては戦災やその後の自動車等による破損に対する改修が行われていました。高欄、橋面敷石、水切り石などは特に多くの補修がされていましたが、工事の記録が残っていないため、つくられた当時の形状を特定することは困難でした。しかし解体時の形状が、基本的には、明治42年の改修後の形状を残していると判断されたことから、市民に慣れ親しまれてきた明治末~対象末期の姿に復元しました。(現地案内板より)
鹿児島の五石橋は、架設された年代順ですと、弘化2年(1845年)新上橋(4連アーチ)、弘化3年(1846年)西田橋(4連アーチ)、弘化4年(1847年)高麗橋(4連アーチ)、嘉永1年(1848年)武之橋(5連アーチ)、嘉永2年(1849年)玉江橋(4連アーチ)です。
平成5年(1993年)8月6日の集中豪雨の時、大洪水で五石橋のうち武之橋と新上橋が流失してしまいました。現在は、残った西田橋、高麗橋、玉江橋の三石橋のみ石橋記念館に移設・復元保存されています。
岩永三五郎之像
所在地:鹿児島県鹿児島市浜町1-3(石橋記念公園内)
肥後の石工で、高い能力と優れた技術を認めら、一族共に薩摩へ招かれました。西田橋をはじめ、鹿児島各地の眼鏡橋をつくった他、古田修繕から新田開発、道路、水道、護岸工事、河川改修工事、など土木事業の責任者としてその腕を振るいました。霧島神宮の手水舎にあります、龍の水出し口がある手洗い鉢もつくったそうです。
岩永三五郎顕彰の由来
肥後の石工、岩永三五郎幸安は、寛政5年(1793年)熊本県八代郡東陽村に生まれ、性質淡泊寡欲にして、まことに良工なりしは人の能く知る所にして、水利を視、得失を考え、大数を測るに敏なる、はじめて見る地といえども神のごとし」と評され、その人物、土木技術のすぐれたること薩摩に聞こえ、天保11年(1840年)、時の家老 調所広郷に一族共々招かれ、藩内一円の営繕、土木事業の責任者として、その腕をふるった。
すなわち、阿久根の古田修繕、出水、国分、加治木の新田開発、市来の水道、伊集院から出水への道路、山川指宿から鹿児島への道路、鹿児島本港護岸工事(三五郎波止場)、井櫃、稲荷川、甲突川の河川改修、西田橋をはじめとするその眼鏡橋の築造は鹿児島、川内、串木野、指宿の各地におよび、三五郎およびその一族にいたって三五郎は九州各地に190余りの眼鏡橋を架橋し、なかでも三五郎の甥 丈八は、明治政府に招かれ皇居の二重橋等々を架橋した。
薩摩滞在中十年もの間、地元の石工共々その献身的な働きにより幾多の土木事業を成し遂げた。岩永三五郎は、嘉永2年(1849年)薩摩を去り、嘉永4年(1851年)10月5日、八代郡鏡町芝口にて59才で没す。ここに岩永三五郎はじめ、その一族の労苦に思いを馳せ、その偉業を後世に伝えるものである。
平成2年10月5日(碑文より)
桜島
石橋記念公園から、桜島がよく見えます。
葉牡丹
石橋記念館
所在地:鹿児島県鹿児島市浜町1-3 石橋記念公園内
開館時間:9:00~17:00(7・8月は19:00まで)
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
駐車場利用可能時間:8:00~21:00
1階は、常設展示室になっています。五石橋の歴史、橋の上の物語、石橋を架ける(ジオラマ)、石橋の文化、五石橋の技術、石橋の移設・復元などのコーナーがあり、五石橋の歴史や架設技術などについて学ぶことができます。
2階は、総合案内所、ガイダンスホール、鹿児島城下と五石橋、石橋ライブラリー、石橋移設地の歴史、休憩スペースやお手洗いなどがあります。
石橋記念館では、五石橋のあらましや移設地の歴史について紹介するとともに石橋に関するデータや映像が検索できます。また、西田橋を眺めながらゆったり休憩するスペースもあります。 鹿児島城下と五石橋では、五石橋が架けられた頃の絵図を用いて、城下町の中の五石橋の位置を表現しています。移設地の歴史では、石橋移設地(石橋記念公園)から出土した遺物を中心に移設地の歴史を紹介しています。石橋ライブラリーでは、五石橋や鹿児島県内の石橋に関するデータや、移設・復元工事の記録映像を見ることができます。
橋の構造
アーチ石:石橋を支える最も重要な石です。
高欄:高欄は、すべてコンクリートでつくり替えられていましたので、新しい石材(花欄石)を加工して復元しました。また、歩行者の安全を守るため、高欄の支柱は見えない所を補強しました。
水切り石:大雨の時には水を左右へ分け、壁に当たる水の力を和らげて壁石を守ります。五石橋の中でも一番大きく、高麗橋の特徴になっています。
護床敷石:河床に敷かれていた石により、水の勢いが減らされて橋が守られていました。
壁石:中詰め土砂や中詰め石が崩れないよう外壁に築きました。川の流れに踏ん張る形で壁に傾斜をつけていました。これは見た目に安定感をますだけでなく、洪水時の水の力を下に向け橋を守ります。
耳石:耳石は、橋面敷石の一番外側にある石で、壁石の外に張り出しています。
橋面敷石:橋面の石張りは斜め布敷き、乱敷きなど各橋で違いがありました。橋面敷石は高欄下の耳石だけが残っており、他はすべてコンクリートで置き換えられていました。残されていた耳石の形状から斜めに敷かれていたと判断し、流失した武之橋の石材(たんたど石)を加工して復元しました。(現地案内板より)
一丁台場歩道橋
いっちょうだいばほどうきょう
平成9年3月竣工