九州旅・九州各地の温泉・四季・町並・歴史

小松帯刀像

小松帯刀(こまつたてわき)は、島津久光の藩政改革を助け藩政の中心となり、薩長同盟時の家老でした。大政奉還勧告者でもあります。

小松帯刀像1

所在地:鹿児島県鹿児島市山下町
制作年:平成5年10月13日
製作者:西俣敏弘

小松帯刀像2

小松帯刀は、薩摩(鹿児島)生まれの幕末の志士です。天保6年10月14日、薩摩藩門閥肝付氏の三子に生まれ、のち小松清猷の養子となり帯刀清廉と称しました。文久1年(1861年)島津久光の側詰で側役勤となり、1862年には家老となり、薩摩藩公武合体運動を大久保利通らと推進しました。以後、京都を中心に幕府や諸藩との交渉に活躍しました。
在京中は土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と昵懇となり、亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したりお龍の世話もしました。長州の井上馨と伊藤博文を長崎の薩摩藩邸にかくまってグラバーと引き合わせ、その後、井上を伴って鹿児島へ行き薩長同盟の交渉を行いました。尚、薩長同盟における密約や桂小五郎が滞在したのも京都における清廉(小松帯刀)の屋敷であったと伝えられています。
慶応2年(1866年)西郷隆盛とともに長州藩士木戸孝允との間に薩長盟約を結んびました。1867年土佐、安芸藩代表とともに将軍徳川慶喜に対して大政奉還を進言し、その実現に寄与しました。明治1年(1868年)明治政府の参与、外国官副知事に就任。1869年賞典禄1000石を賜ったが、翌明治3年7月20日大阪で病死しました。
先日、「もし坂本龍馬が長生きしたら(天寿を全うしたら)」という設定の番組がテレビでありました。坂本龍馬も小松帯刀も西郷隆盛もみんな長生きしていたらどうなったのでしょう。そして今の世の中をどんな風にご覧になっているのでしょう。

小松帯刀像3

明治維新の推進者  小松帯刀

この像は京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた小松帯刀の功績をたたえる像である。時に小松33歳 慶応3年(1867年)10月13日であった。
平成5年10月13日 銅像寄贈者 小松帯刀顕彰会  碑銘 国務大臣 金丸三郎(碑文より)



南九州一覧

  鹿児島  宮崎  沖縄