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史跡 鶴丸城址

鶴丸城跡 (鹿児島城跡)は、鶴が羽を広げた形をしていたことから、鶴丸城と呼ばれています。

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所在地:鹿児島県鹿児島市城山町
鶴丸城は、江戸時代初期、慶長6年(1601年)~慶長9年(1604年)に島津家18代家久によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された城です。鹿児島城とも鶴丸城ともいわれています。

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鶴丸城は、「人をもって城と成す」という精神に基づいて造った、天守閣のない質素な屋形でした。天然の要塞で、その地形から鶴丸城と呼ばれるようになりました。現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。

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鶴丸城跡

 鶴が翼をひろげた形をしていることから鹿児島城は別名鶴丸城と呼ばれています。慶長6年(1601年)島津家18第家久が、関が原合戦の後、上山城(城山)の補修と麓の居館づくりを思い立ち、父義弘のここは海に近すぎて危ないという反対を押し切って着工します。家久はこの地を政治・経済の中心地として城下町の建設を始めたのです。
まず居館を築き、その周辺に家臣の屋敷を移し、慶長11年(1606年)城の前の橋が完成したとされています。城といっても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりでした。これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷土団が守る外城がめぐらされていました。
 城下は鶴丸城を中心に武家屋敷、その外側に上町6町、下町12町、そして西田町4町が設けられ、5,000人余りの町人があつめられましたが、圧倒的に武士の多い城下町だったようです。維新後は、熊本鎮台の分営として使われ、明治6年(1873年)炎上。残されたのは城壁と擬宝珠つきの石橋だけとなりました。(現地案内板より)

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鶴丸城に架かる石橋

石橋の先には、御楼門があったそうです。残念ながら明治7年(1874年)に、焼失しました。残されたのは城壁と擬宝珠つきの石橋とお堀だけです。

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無数の弾丸痕が残る石垣

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鶴丸城の石垣

石垣に無数の弾丸痕がありました。西南の役の激しさを物語っています。1877年に明治政府に対する不平士族は西南戦争を起こします。西郷隆盛を擁立する反乱軍は熊本城を攻めますが、政府軍の反撃を受けて苦戦します。田原坂を始め次々と戦いに敗れて撤退し、最後の激戦地となった鶴丸城に立てこもりました。その時、政府側の放った無数の弾丸の痕が鶴丸城の石壁に残っています。
しかし、それにしても、こんなにいっぱい石垣に弾を撃ち込んだのは何故。数打てば、こんな頑丈な石垣でも崩れるとでも思ったのでしょうか。

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西南の役は、日本最後の内戦でした。明治10年(1877年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。西南の役、丁丑の乱、十年戦争、私学校戦争とも呼ばれ、明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模のものでした。

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