鹿児島県歴史資料センター黎明館
鹿児島県歴史資料センター 黎明館(れいめいかん)内には、鹿児島の歴史・民俗・美術・工芸品を展示しています。
所在地:鹿児島県鹿児島市城山町7-2(鶴丸城址敷地内)
昭和58年(1983年)に開館した人文系の総合博物館です。
特別展示室、講堂の他、屋外展示場の一角に、木立に囲まれた静かなたたずまいの茶室「楠芳亭(なんぽうてい)」があります。10畳と4畳半の2つの部屋がそれぞれ独立して使用できます。また、ゆとりのコーナー、レストラン、ベビールームあります。
県指定史跡 鶴丸城跡
鶴丸城は鹿児島城ともいい、17世紀初頭に島津氏18第家久(初代藩主)が築いた館造りの城で、明治初年まで島津氏の居城でした。現在地には、大手門にあたる御楼門がありましたが、明治6年12月に城とともに焼失しました。その後、この城跡には第7高等学校造士館、鹿児島大学医学部などが置かれましたが、昭和58年10月に黎明館が開館しました。
鹿児島県歴史資料センター黎明館(現地案内板より)
鹿児島県歴史資料センター黎明館
七高生久遠の像
この像も鶴丸城址にあります。
平成2年10月25日に、第七高等学校造士館開校90年記念祭を迎え、二つの歌碑を建立しました。第七高等学校造士館卒業生の若き日の熱き想いと、第七高等学校造士館の遺芳を永遠に伝えるために建てられました。
巻頭言
流星落ちて住む處 橄欖の實の熟るる郷
あくがれの南の國(みんなみのくに)に つどひにし三年(みとせ)の夢短しと
結びも終へぬこの幸を 或ひは饗宴(うたげ)の庭に 或ひは星夜の窓の下に
若い高らふ感情の旋律をもて 思ひのままに歌ひ給へ
歌は悲しき時の母ともなり うれしき時の友ともなれば(碑文より)
第7高等学校造士館 楠の葉末の歌碑
この歌碑も鶴丸城址にあります。
歌碑建立の由来
第七高等学校造士館は、明治34年(1901年)10月25日、鶴丸城址なるこの地に開校記念式典が挙行され、昭和25年(1950年)3月31日、戦後学制改革によって、その50年にわたる光輝ある歴史の幕を閉じた。全国各地から青雲の志を抱いてこの学窓に集い卒業した者、その数9279名、いづれも人生のもっとも貴重な青春の日々を、この地で熱い友垣の中、勉学に、読書に、思索に、はた又スポーツに限りなく燃焼させ、心高鳴れば期せずして、固く肩を組んで高誦するのが「北辰斜に」であり「楠の葉末」であった。
この二つの記念祭歌及び寮歌は、歌詞といい、作曲といい、いづれも心の琴線にふれる普及の各歌だり、我々七高造士館に学んだ者にとっては、魂のふるさとの歌であるとともに、広く一般にも愛誦されていることは、我々の喜びにたえないところである。今年開校90年記念祭を迎えるに当たり、この二つの歌碑を建立し、我々の若き日の熱き想いと、第七高等学校造士館の遺芳を永遠に伝えるものである。
平成2年10月25日 第七高等学校造士館開校九十年記念祭 名誉会長 西田俊吉(現地案内板より)
薩摩辞書の碑
薩摩辞書の碑は、鶴丸城址近くの県立図書館の入口にあります。薩摩藩学生高橋新吉・前田正穀共編「改正増補和訳英辞書」の通称を薩摩辞書といっていました。明治2年(1869年)刊。開成所の「英和対訳袖珍辞書」の改正増補版をもとに、見出し語に片仮名で発音を示したものです。
薩摩辞書とは、薩摩版英和辞書のことです。慶応元年(1865年)薩摩藩士 高橋新吉と前田献吉と前田正名の3人が藩庁から資金を借り、明治2年(1869年)に中国の上海で開成所版の英和辞書を翻刻したものです。当時2000部出版されたそうです。英語熱の高まる当時、薩摩辞書として非常に珍重されました。高橋新吉(後の勧業銀行総裁)らは出版の益金で米国遊学をしたそうです。この碑は彼らの業績を称え、昭和56年3月に鹿児島市によって建立されました。