養泉山 不断光院
浄土宗知恩院の末寺です。
浄土宗 養泉山 無量寺 不断光院
所在地:鹿児島県鹿児島市易居町1-10
江戸時代までは鹿児島市長田町の私立南風病院周辺に所在していました。薩英戦争時には、自然の山と山下の館によって構成されていた鹿児島城と比べ、山斜面に寺院施設があったため、島津氏の本城と誤認されて英国艦隊の砲撃により罹災しました。
廃仏毀釈に遭い明治に現在地に復興しましたが、太平洋戦争時にも罹災しました。正面の仁王像は廃仏毀釈時に土中に隠匿されたものを農民が後に掘り出し、販売していたところを買い戻したものといわれています。
戦国武将の一人、薬丸壱岐守こと、薬丸 兼成(やくまる かねしげ)の墓所があります。薬丸兼成の法名は法雲道澄信士。薬丸壱岐守は、朝鮮の役の際にはすでに白髪の老人であったにも関らず、名高い武功者だったので召集され、期待通りに活躍しました。関ヶ原の戦いでは、敵中突破の後の退避行で伊賀上野城下を通った際、「島津兵庫まかり通る」と大声で名乗って堂々と通過するほどの豪の者だったそうです。戦功により縷々加増され、晩年にはおおよそ百石の知行があったといわれています。
山門
山門の二階には、鐘楼があります。
仁王像
不断光院の仁王像は、なんとも切ないお姿ですが、こうして今もここに立ち続けていることに深い意味があることを教えていただきました。
以前新聞に掲載されました、不断光院七代目の富岡照道住職の話によると、明治二年の廃仏棄釈に際して、姶良方面の寺院の信徒が難を逃れるため畑にこの二体の仁王像を埋めて隠したそうです。
明治末か大正の初めごろ、農夫が発見し、荷馬車に積んで鹿児島市内に売りに来たのを、四代目の中原麟宏住職が二十円で購入したそうです。その後、昭和二十年の大空襲で焼夷弾を受け、本堂などは壊滅状態になり、この仁王像も一部焼けたり腕が切れたり損傷したそうです。廃仏毀釈と大空襲の被害を受けた仁王像ですが、できる限りの修復をして現在に至っているそうです。