ザビエル公園
紹介文
所在地:鹿児島県鹿児島市東千石町4-9
石造りの門の様なものは、旧聖堂の一部です。明治時代に日本最初の仏和辞典を作成したラゲ神父が、ザビエルの功績を讃えて建てたザビエル教会(旧聖堂)は第2次世界大戦で焼失しましたが、その石壁がザビエル滞鹿記念碑として公園内に残されています。そこには、フランシスコ・ザビエルの胸像もありました。
フランシスコ・ザビエルの胸像
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、天文18年(1549年)に鹿児島の祇園之洲に上陸しました。それから約1年を鹿児島で過ごし、キリスト教をはじめ、さまざまな異文化を伝えました。
ザビエル公園記念碑
平和の使徒聖フランシスコ・ザビエルは、日本人に大きな希望と愛情を胸にいだいて、1549年8月15日わが鹿児島に上陸しました。ザビエル聖師は日本に初めてキリスト教を伝えたばかりでなく、更になお欧州の文化をもたらし、日本文化に大きな影響を与えました。ここに聖師の鹿児島上陸四百年の年を迎えるにあたり、記念公園を設け、その崇高偉大なる精神を永久にたたえるものであります。
昭和24年8月15日 鹿児島市長 勝目清(碑文より)
フランシスコザビエルとヤジロウとベルナルドの像
所在地:鹿児島県鹿児島市東千石町4-9
ザビエル公園内にあります。
ザビエルと薩摩人ヤジロウ、ベルナルドの3人の等身大の像は、平成11年に溝口守一氏により制作されたものです。中央がフランシスコ・ザビエル、向かって右側が薩摩人ヤジロウ、向かって左側がベルナルドです。
やじろう(ヤジロー又はアンジロー)は、薩摩藩の元武士でしたが、誤って人を殺し、官憲の目から逃れるために鹿児島を離れアジアを転々と逃亡していました。やじろうは、1947年にマラッカにたどり着き、丘の上の教会(現在のセントポール教会史跡)でフランシスコ・ザビエルと出会いました。イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、薩摩人ヤジロウの案内で鹿児島に上陸したのはその2年後、天文18年(1549年)でした。(日本最初のキリスト教の伝来です。)しかし、仏教徒の激しい反対にあい、ザビエルは10ヶ月で平戸に移りました。もし、やじろうとザビエルが出会っていなかったら、ザビエルは日本に来ていたでしょうか。
ベルナルドは、ザビエルが最初に洗礼を授けた日本人でした。ベルナルドは鹿児島出身ですが、イエズス会の記録にベルナルドという洗礼名のみ記録されているだけで、日本名は知られていません。日本人初のヨーロッパ留学生であり、日本人として初めてローマ教皇とも対面した人です。ザビエルは1551年11月5日に日本を離れる時、ベルナルドを初めとする5人の日本人を帯同しました。ベルナルドは、強く深い信仰心を持ち、真摯で潔い生き方をし、1557年3月のはじめに世を去りました。
鹿児島カテドラル・ザビエル教会
所在地:鹿児島市照国町13-42(ザビエル公園の向かいです)
1999年に完成したコンクリート聖堂は、ザビエル日本渡来450年を記念し、信者はもとより、多くの方々の寄付によって建てられました。この聖堂は、ザビエルが日本に来るとき、乗ってこられた帆船をイメージして造られました。鹿児島カテドラル・ザビエル教会は、その名前の通り、主として二つの目的で建てられました。
カトリック鹿児島司教区のカテドラル(司教座聖堂)であることと、日本にキリストの福音を初めてもたらしたザビエル渡来の記念碑とすることです。司教座聖堂は、教区民の母なる教会として、その信仰生活に奉仕する場となり、また鹿児島における福音宣教の拠点となるところです。それにふさわしい聖堂であることを念頭に設計されました。
ザビエルの鐘は、正面の高さ31メートルの鐘楼に吊るされた鐘です。正午、夕刻6時に鳴り響き、信者を「お告げの祈り」(アンジェラス)に誘います。また、冠婚葬祭にも鳴らされ、鐘の背面には、ザビエルにまつわるエピソードに因んで、十字架を掲げるカニの姿が刻まれています。