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西望記念館

長崎平和記念像の作成者として親しまれている、日本彫塑界の巨匠で、文化勲章を受章した、郷土出身の芸術家、北村西望氏の代表作約60点を展示しています。

西望記念館1

所在地:長崎県南島原市城内1丁目1183-1
島原城内 巽櫓
開館時間:9:00~17:30
休館日:なし
入館料(天守閣・西望記念館・観光復興記念館共通券)大人540円・小人270円
島原城の一角にある「西望記念館」は、北村西望氏の米寿を祝して昭和47年(1972年)に開館しました。西望氏の1世紀に近い長い創作活動の軌跡をたどれる、世界でも類のない場所で、館内には「将軍の孫」「喜ぶ少女」「健康美」「加藤清正公」など多数の作品のほか、平和祈念像の最初の雛形も展示されています。
また、祈念館の外、島原城にある「日蓮上人」「人類の危機」「平和の女神」など大きくて力強い作品はとても見ごたえがあり、西望氏の芸術作品を身近に感じることができます。

西望記念館26

北村西望

北村西望(きたむらせいぼう) 1884年~1987年 彫刻家
 明治17年(1884年)12月16日、長崎県南高来郡南有馬村白木野名字宮ノ木場に、父・陳連、母・サイの4男2女の末子として生まれました。小学校の頃は、学校を休むことなく褒美を受けるが、遊びに夢中で成績は後ろから3番目だった。しかし高等科に進んだ西望は一転して机に向かう時間が長くなり、ついには主席で卒業17歳で母校の教員となりました。病気療養中の19歳の時、自宅の隠居所新築のために4枚の欄間を制作。その出来栄えは周囲の人を驚かせ、西望が彫刻の道を選ぶ直接のきっかけとなりました。
 その後西望は父の反対を押し、京都美術工芸学校、東京美術学校と進み、技術と知識の習得に励みます。この学生時代に、終生の友となる建畠大夢や、朝倉文夫と出会い、互いに切磋琢磨します。卒業顔は、低迷生活が続きますが、その間も努力と研鑽を重ね「逞しく、力感溢れる男性像」という西望独自の作品スタイルを確立します。そして、文部省主催の第9回展覧会で「怒涛」が最高賞に選ばれるまでになり、彫刻家として一歩一歩確固たる地位を得るに至ります。
 昭和20年、石膏直付け手法を考案した西望は、その技術を擁し故郷でもある長崎に、終戦日本の平和の象徴として「平和記念像」を制作します。「力強い平和」といった主題のもと、構想から完成までに5年の歳月をかけ、特に初期の構想段階ではイメージ作りのためのデッサンにかなりの時間を費やしたようです。
 平和記念像を制作したのちの西望は「逞しく力感溢れる男性像」という自身の作品スタイルこそ変えなかったものの、モデルを使わなくなり、わかりやすさを第一に好き嫌いは相手まかせと、自由な制作活動に没頭します。102歳で亡くなる直前まで制作意欲を燃やし歩みを止めなかった西望の人生は、その作品スタイルそのものを体現したものとして、何人もの追従をも許さない厳しさがあります。
 このように明治・大正・昭和と、日本における激動の時代に生きた北村西望は、彫刻家としてはもとより、日本の芸術界にとって、なくてはならない存在でした。特に、後半生の作品に象徴される平和にかけた願いは、人々の心に強い印象を刻んであますところがありません。(現地案内板より)

西望記念館10

平和祈念像

長崎原爆が丘にそびえる平和記念像は、台座十三尺(約4m)、高さ三十二、四尺(約9.7m)計14m余り。これに消費した青銅は約六千貫(約23t)。男体のブロンズ像としては世界最大です。本作品は四分の一大です。右手は天空に直立して原爆の恐怖を示し、水平に広げた左手には平和を願っています。人類普遍の信仰心を凝縮した大慈、大悲の姿でしょう。(現地案内板より)

西望記念館18

平和記念像 最初の雛型

この作品については、観音にするか、女神にするか、また裸体にして男か、女か、立像か座像かいろいろともさくした結果、自分の最も得意とする裸の男とすることに決まりました。(現地案内板より)

西望記念館19

平和像立像試作

「平和記念像」のために無数の構想的試作のひとつですが、浦島連作と同時制作のためか、ポーズ顔もよくにています。しかし、「奈良の大仏」にも負けぬようにとまで考えた平和記念像には、立像ではどうも重量感にとぼしいということで中止になり、座像がとられました。(現地案内板より)

西望記念館9

西望は、デッサンを何十、何百と描き直しました。苦心に苦心をかさねたすえ、やっとできあがったのは、じっと目をつぶった、きびしいようでいて、だれでも抱きとめるようなやさしい表情。それはやさしい男の神様の顔でした。(現地案内板より)

西望記念館16

平和像の顔

西望記念館17

平和像の顔の横顔

西望記念館2

1970年 86歳の時の作品

西望記念館23

師範代

この作品は、空手や柔道にも縁がない医学校の某運動選手をモデルにして制作されたものです。木彫のような思い切った面取りがなされていますが、よく見ますと指紋のあともついているような実に繊細な肉付きがなされています。作者は、この年最初の場上の大像、「寺内元帥馬上像」の依頼をうけ着手しています。いま、まさに順風に帆をあげようとする自信にあふれた作品です。」(現地案内板より)

西望記念館3

師範代の顔

西望記念館20

健康美

西望記念館27

西望記念館5

天使降臨

西望記念館14

加藤清正公像

この作品の四倍大の清正公像が熊本の本妙寺に昭和35年4月5日池上住職らにより再建されました。像は中尾山から熊本市内を見下ろしています。(現地案内板より)

西望記念館6

加藤清正公像

西望記念館7

加藤清正公像の顔

西望記念館4

獅子

西望記念館11

西望記念館15

阿弥陀三尊

山村の方は、二年前に造られ、この年背後の大きな光背が二重身光として作られました。光背の鳳凰、そして唐草模様も、まったく独自なもので、蓮弁と螺旋状のバロック的な光線の象徴のようなものをつけ、「普通のものでない」光背を工夫したと作者は言っています。裏面には作者の筆で「大慈無辺」と刻銘があります。(現地案内板より)

西望記念館8

阿弥陀三尊

西望記念館13

将軍の孫

西望記念館21

将軍の孫

西望記念館12

喜ぶ少女

西望記念館22

西望記念館24

扇が刻まれています。

西望記念館25

西望記念館

西望筆によるものです。

 郷土島原が生んだ日本彫塑界の巨匠・北村西望先生の米寿を祝し、不朽の業績を顕彰するため、ここに西望記念館を建てる。明治、大正、昭和に亘って創作された一つ一つは、常に生き生きとした感動を呼び起こし、人びとの魂を洗い清めて、永遠の輝きと香気を漂わせている。まさに、日本が世界に誇る至宝である。雄こんにして神仏の慈悲をたたえた西望芸術の源流は、おおらかで麗しい、ふるさとの風土と歴史の中から、醸成されたとみることができる。私たち、島原を郷土にもつものの、誇りと喜びの形象として、先生のご厚意を仰ぎ、在京南髙人会の熱意と多くの人たちの共感によって、この西望記念館を実現させた。世界に類の無い彫刻芸術の殿堂である。
ここを訪れる人は、その崇高な気品と真髄にふれ、清かな思念にうたれるであろう。そしてまた、島原に生まれ育つ人が、この偉大なる芸術家の精神と業績を炬火として、研鑽の心を燃やしつづけて欲しいと、切望してやまない。
昭和47年秋 吉日 島原市長 松尾徳義 識(碑文より)


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