九十九島
九十九島は、佐世保港の外側から北へ25kmにわたり島々が点在する海域のことで、島の密度は日本一といわれています。九十九とは数がたくさんあるという意味で使われる例え言葉で、実際の島の数は208あります。
佐世保港外から北へ、平戸までの約25kmの海域には、複雑に入り組んだリアス海岸と208の島々が織りなす美しい自然景観が広がっています。人が住む有人島は4島、他はすべて無人島で、ほぼ全域が1955年に西海国立公園に指定され、288.5kmに及ぶ海岸線の80%以上が自然海岸のまま保全されています。
有人島は、黒島(約750人)、高島(約300人)、前島(86人)、鼕泊島[とうどまりじま](71人)
西海国立公園九十九島
佐世保港外から北へ25キロ、平戸瀬戸まで208の島々が連なる多島海は九十九島と呼ばれ、日本最西端の国立公園に指定されています。九十九島の中でも佐世保近海の島々は「南九十九島」と呼ばれ、とりわけ美しい島々が集まっています。(現地案内板より)
高島
伊能忠敬と九十九島
伊能忠敬(1745年~1818年)は、日本で最初の実測による日本地図を作成した人である。忠敬は、延亨2年に上総国山辺郡小関村(現:千葉県山武郡九十九里町)に生まれる。50歳の時江戸に出て、幕府天文方の高橋至時に入門し、55才で北海道南岸や奥州街道の測量を行った。その後、本格的に日本地図作成を開始、九州地方の測量は文化6年(1809年)と第八次となる文化8年(1811年)から文化11年(1814年)の間で行われた。佐世保地方には文化九年暮に来て、佐世保湾や九十九島の測量を行い、相浦で68歳の正月を迎えている。
相浦では忠敬は、「七十に 近き春にぞ あひの浦 九十九島を いきの松原」と歌を詠んだ。70歳に近い春までよくぞ生きたことを相浦にかけ、さらなる長寿を九十九島の松に重ねて願っており、そのときの心境をよく表している。九十九島や佐世保地方沿岸の地形は、驚くほど正確に測量されており、当時の測量技術の高さを示すと同時に、伊能忠敬が70歳に近い年齢でありながら、日本地図作成にかけた情熱を伺うことができる。
日本地図は忠敬の没3年後に完成し、幕府に上呈された。その後、文政11年(1823年)には長崎出身の医師であったシーボルトが伊能地図を含む国禁の図書多数を国外に持ち出そうとしたことが発覚(シーボルト事件)、シーボルトが国外追放になったことも有名である。(現地案内板より)