ド・ロ神父像
ド・ロ神父は、施設建設や事業のために私財を惜しみなく投じ、農業・印刷・医療・土木・建築・工業・養蚕業・製麺などの広範な分野に渡る技術を外海の人々に教え、ド・ロさまと呼ばれ親しまれました。
ド・ロ神父像
この像は、旧出津救助院が国の重要文化財に指定されたのを祈念して改修したものです。
2004年11月 外海町 (碑文より)
マルク・マリー・ド・ロ神父
1840年3月27日~1914年11月7日
1840年3月27日フランスノルマンディー地方に生まれ、1860年に神学校を卒業後、パリ大学へ進みます。1865年に司祭に叙階されました。
慶応4年(1868年)6月に来日し、長崎で布教をしました。明治4年(1871年)に横浜へ転属し、明治6年(1873年)に長崎に戻りました。
明治12年(1878年)、出津教会主任司祭として赴任し、明治12年(1880年)に孤児院を開設しました。明治16年(1883年)には救助院を設立して授産活動を開始しました。授産院では、ド・ロ神父の技術指導に基づいて織布、編物、素麺、マカロニ、パン、醤油の製造などを行いました。明治19年(1886年)には、ド・ロ診療所を開設しました。
大正3年(1914年)11月6日、大浦天主堂司教館建築現場において足場から転落し、それが元で持病が悪化し、翌時の11月7日に天に召されました。
余談ですが、長崎を中心に多くのキリスト教会を設計した鉄川与助は、ド・ロ神父からモルタルの塗り方、煉瓦の使い方などをはじめ、様々な技術を学んだと言われています。大浦天主堂の大司教館は、ド・ロ神父が設計し、鉄川与助が施行しました。福岡県大刀洗町にあります今村天主堂も鉄川与助の設計・施行によるものです。
ド・ロ神父と近べぇさん
出津教会の裏にド・ロ神父と中村近蔵翁の二人の像があります。ユーモア溢れ、優しいド・ロ神父は村人たちともすぐに打ち解けました。しかし、どうしても日本語は難しかったようで、苦労されていたそうです。そんなド・ロ神父の良きパートナーとなったのが、黒崎村出身の伝道士・中村近蔵でした。中村氏は、神父から青年教育所を任せられ、布教活動の手伝いはもちろん、通訳から代筆までして神父を助け、神父と村人の心の通じ訳として献身的に働きました。神父は親しみを込め、「近ベエさん」と呼んでいたと伝えられています。