勘定場の井戸
鯨組の勘定場で使用されていたという、大きな井戸です。
所在地:長崎県平戸市大島村
大島村指定文化財 昭和61年3月指定
大島の捕鯨と勘定場の井戸
大島の捕鯨は、寛永2年(1625年)播州(兵庫県)の横山甚五兵衛紀州(和歌山県)の与四兵衛らの鯨突組を端緒とするが横山氏は数年で廃業している。
寛文元年(1661年)、三代目政務役井元弥七左衛門義信は、藩主のすすめにより捕鯨業に着手。当初から鯨網組として西泊浦(鯨の浦)に鯨捌所を置き、神浦の諸所に倉庫、網納屋工場等を設け、的山、大根坂、和歌の浦の出漁拠点を含め数百人を擁する一大産業を形成し、西海の捕鯨家として名を成している。
当事はキリシタン弾圧と酷刑、生類憐れみの令、一揆、打ち壊し等々の社会不安と貧困のさなかにあって、西海の男たちは寒風吹き荒ぶ玄海の荒波に鯨を追い求めて、「鯨一頭獲れば七浦賑わう」といわれ、藩の財政を潤し庶民の生活を救った。藩に対しては、平戸亀岡城、雄香寺、船手役所の建設をはじめ莫大な献金などで貢献している。
井元氏は享保11年(1726年)に突然廃業しているが、その後も享保の大飢饉の運用金調達など多くの社会事業に貢献している。
平戸には井元氏寄進の雄香寺の梵鐘、中ノ浦のソテツ等があり、大島には鯨の浦、
この井戸は、鯨組勘定場付きの井戸で、当時の海外に接して堀も深く立派な井戸である。
井元氏のほか、大島の捕鯨関係事業主としては、寛文13年和田津見神社を創建した富永源右衛門(泉屋)が知られている。
平成8年11月 大島村教育委員会(現地案内板より)
六角井戸
寛文6年(1666年)に、この井戸がある上の真教寺の創建時に造られた井戸です。